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過 去 の 日 記
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2001年4月27日
今日のバイトは南大沢。同じ八王子市内で、自転車で二十分足らずの
ところ。ここは多摩ニュータウンの一角なのだが、バブル崩壊で公団の
資金繰りが停止し、完成間近で建設が中断し、そのまま十年ほども
ほったらかしになってしまっているマンション群がある。今日の仕事は、
その後片付けだった。
仕事内容は、部屋の中に置き去りになった畳や、ユニットバスの部品を
ゴミ捨てトラックに運ぶ作業。今後このマンションがどうなるのかは
知らないが、ひとまず古くなりすぎた内装品が処分に回るらしい。
畳がとても重いから大変かもしれない。最初にそう脅されて、腕力の
いる作業は嫌だなと思っていたが、実のところ、仕事は異常に楽だった。
学生時代、似たような単発のバイトはいろいろ経験したが、その中でも
指折りの楽ちんさだった。というのも、運ぶべき荷物の個数が少なく、
かつ運び出すトラックの到着が午後だったため、トラック待ちで休んで
いる時間が、アルバイト時間の半分くらいを占めていたから。
しかもアルバイトは五人もいた。みな周囲がゴーストタウンであるのを
いいことに、畳を地べたに敷いて寝転がっていた。
そんな何もしていない間の給料も、大もとは公団が支払っており、
突き詰めるとそれは税金からまかなわれていることになる。
仕事が楽なのを喜んでいいのか、それとも怒るべきなのか。
2001年4月26日
今日はバイトで箱根ヶ崎へ行った。近くの人以外はピンとこない地名
だろう。八王子から八高線で三十分弱のところにあり、行政的には
東京都の数少ない"町"である西多摩郡瑞穂町の中心になる。
改札脇の待合室に、電車待ちの図書コーナーが置かれているような田舎の
駅。ホームから見えるところに大きな垂れ幕で「横田基地軍民共有化反対」
と書かれていた。
ややあって、空から轟音が響いた。見上げると、まさに空港の間近で
しか見えない大きさで、空をゆく航空機の腹が見えた。
石原都知事が横田の民間利用を唱えている。羽田へも成田へも遠い
東京西部の住人にとって、横田が民間空港となれば、これ以上なく便利で
ある。JRも国道も現時点で空港の正面を通っている。
でも、たしかにこれはうるさいな、と正直思った。
もっとも米軍基地と、一般の民間空港とで、どちらの騒音がよりひどい
のか、その答を知らないのだが……
2001年4月25日
東京検疫所へ行った。てっきり有楽町あたりにあると思ったら、
お台場のさらに先、海の上に、税関などと同じ建物の中に入っていた。
保険証も旅券もいらず、印鑑も身分証も不要で、前日の電話予約で
氏名と生年月日を伝え、健康状態などの質問書を計3通記入し、
注射はすぐに終わった。
黄熱病の予防接種と、その証明書(いわゆるイエローカード)の取得
である。南米などではこれがないと入国できない国があるのだ。
そのあと航空券を予約した。値段で選び、マレーシア航空。週3便の
ため、ほぼ必然的に出発日が確定した。
う〜む。あと一か月だ。
2001年4月24日
人を誉めるより、悪口を言うほうが簡単だし、面白い。その相手が、
直接面識のない他人であれば、なおさらだ。
政治の話をするとき、「いいんじゃないの」と肯定するより、
「だめだ。ここがよくない」と批判するほうが、いかにも自分はよく
知っていて詳しいように思える。
橋本派や派閥政治を徹底批判し、小泉候補歓迎一色だったテレビや
新聞、そして識者と呼ばれる人々の論調が、候補→総裁→総理とその
肩書きが変化するにつれ、少しずつ変調していく。
「小泉政権になって日本は変わると思うか」という某テレビ番組の
質問に、評論家の多くが、いくつかの問題点や難関を指摘し、「X」
と答えていた。
お前ら、日本の政治が悪いままのほうが、飯が食えるからだろ。
2001年4月23日
台湾の李登輝前総統が来日した。心臓病の検査が目的だという。
中国は政治目的だと反発し、日本では対中関係を懸念し査証発給に反対する
意見があった。
関空に降り立った李氏は、流暢な日本語で挨拶をしたという。
彼はかつて京都大学で学んだ経歴を持ち、「私は日本人として生まれた」
なんてことも言っている。今回も京都訪問を希望したが、たぶん様々な
圧力で、滞在先は大阪と倉敷に限られるようだ。
心臓病がどれほど深刻なのか、政治的効果を本当に狙っていないのか、
それは分からない。
ただ、一個人として考えれば、青春時代を過ごした町(あるいは国)を
再訪したい、そう願うのは、ごく当たり前の気持ちであると思う。
その意味で、李氏の訪日を勝手に歓迎する。
2001年4月22日
富士山の西麓、静岡県富士宮市に田貫湖という小さな湖がある。
まだGW前であり、かつあまり芳しくない天気予報であったにも
かかわらず、湖畔はそこそこ賑わっていた。
学生時代の先輩後輩に誘われて、一泊二日のキャンプをした。
土曜の午後、雨こそ降っていなかったものの、霧がかかっており、
景色はまったくといっていいほど見えなかった。花見という題目も
あったものの、桜はすでに散っていた。
ただ、残念だという気持ちはそれほどなかった。なぜなら、大量の
麦酒がそこにあったから。
翌朝、テントの周りは凄まじいことになっていた。夜中に辺りを
歩き回った犬がいたようで、鍋の残り物がまるでXXのように芝生に
飛び散っていた。
しかし、天気は絶好の方向に向かっていた。雨は夜にちょっと降った
だけであがり、雲はゆっくりと晴れ始めていた。
そして、空には、巨大な富士が見えた。
後片づけを済ませ、長者が岳という山に登った。急峻な坂道が続き、
運動不足&二日酔いの身体にはきつかったが、山頂からの富士山の眺めは
極上だった。山頂は富士山の方角だけに眺望が開け、まさに富士を見る
ためだけの山となっていた。
帰路、白糸の滝を観て、天母の湯という温泉に寄った。前者は滝の列が
カーテンのように横に広く並ぶ大きなもので、後者は露天風呂からの
眺望が雄大で、なんの予備知識もなくて行ったのだが、どちらも期待以上
であった。
久しぶりのキャンプ、久しぶりの登山だったが、改めてその楽しさを
噛みしめた二日間だった。
2001年4月18日
今日は立川でバイトをした。デパートの改装箇所の片付け。
学生時代、飾り付けのバイトで閉店後のデパートに入ることが
多かったが、その頃を思い出して懐かしかった。
帰り。吉祥寺で人身事故があったとのアナウンスがあり、ダイヤが
大幅に乱れていた(運行再開後で、電車にはすぐ乗れた)。中央線の
自殺率は他路線と比べ圧倒的に高いのだが、これは有り難くない
懐かしさだった。
家に着いた後、借り物の作業着を忘れたことに気づいた。やべえ。
明日か明後日取りにいくまで、捨てられたりしてなきゃいいけど。
2001年4月16日
小泉純一郎&田中眞紀子の総裁選タッグが渋谷で演説し、コギャルなど
若者を含め、非常な数の大群衆が集まったという。
とある女子高生の言葉。
「静香ちゃんよりじゅんじゅんのほうがカッコいいし、世界に出して
恥ずかしくない」
へえ、亀井静香のことも知っているんだ。
2001年4月15日
千葉ロッテが西武に三連勝した。日テレは相変わらず巨人しかやらないが、
"公平な"NHKが首位ロッテの話題を大きめに取りあげていた。
プロ野球を見始めた最初の記憶は、原辰徳が新人の年で、
この年のパリーグの覇者は日本ハムだった。阪神は小六のときに優勝した。
弱かったヤクルトも90年代に入り黄金期を迎えた。自分が生まれる前から
優勝に遠ざかっていた横浜やダイエーもついにペナントを手にした。
そのほか、ロッテを除く11球団の優勝を、俺は見たことがある。
新庄で注目されている現メッツ監督のバレンタインがロッテの監督
だったとき、ロッテは伊良部、小見山、ヒルマンの三本柱でけっこう
頑張っていた。今年、黒木、小野、ミンチーの三本柱で首位に立っている。
唯一優勝を見たことがないからという、真剣なファンには少々怒られ
そうな理由ではあるが、今年はロッテを応援しようかと思っている。
優勝が決まる秋に、どこにいるかは分からないけれど。
2001年4月14日
スキャナを買った。予想以上に使いにくい..というか説明書が
不親切すぎて訳が分からない。おまけに自分のパソコンが古すぎて
接続できないので、弟のマックにスキャナをつなげたら、マックの操作
にも思いっきり苦戦した。
かなり遠回しな手段で、やっと一枚、手持ちの写真をウェブ上に
載せることができたけど、どうすればもっと上手くできるんだ?
誰が悪いわけでもないけど、腹が立つ。パソコン業界は、
案内書や雑誌の出版社とか、パソコン教室の学校と結託して、わざと
不案内で難解な説明書にしているとしか思えん。
2001年4月13日
ニュースステーション。真中瞳のスポーツが、お水の花道もどきの
セットでされていた(他局だろうに)。最近の久米宏は、以前に増して
やりたい放題になっている気がする..
2001年4月12日
お墓を見に行った。たいがいが山の上や丘の斜面の眺めの良い場所に
ある。昔ながらの直方体の墓石ばかりではなく、洋型と呼ばれる台形のもの、
赤や緑の石を使ったカラフルなもの、ピアノの形をしたり、墓標に「777」
と彫られていたりと、多様な墓があった。
それはともかく、やはりというか、しかしというか、高い。
敷地の広さにもよるが、例えば、場所代に300万、石代に250万、
その他に管理費がかかる。なんだってただの石の塊をちょっと削っただけの
代物が、現代技術の粋を結集した自動車と同等以上の金額になるのだろう。
とある管理の人が、これからお墓の値段も下がる、と言っていた。
マックも吉野屋も値下げ、敷金を半額にする不動産屋まで登場する時代で
ある。お墓だってデフレでいいだろうと思う。
一番気になったこと。墓地造成のために切り崩されていた山。
2001年4月10日
江戸時代の人々はけっこう優秀だったという話がある。
「読み・書き・そろばん」を習わせる寺子屋の制度が浸透しており、
庶民にまで教育が行き届いていたというのだ。その教育水準の高さが、
明治の近代化に大いに役に立ったという。
円周率を3にするという教育改革が論議を呼んでいる。
3.14の計算が大変であり子供に負担になるから、3でいいじゃないか
というのがその改革論拠だ。円周率は3.14以下も15926……と
永遠に続く数であり、そのほか分数でも他の数式を使っても絶対に表す
ことのできない不思議な数(超越数)である。中学以降、平方根とか、
対数とか、難しい数がいろいろ登場するが、その中で一番初めに現れ、一番
なじみ深いのが円周率だ。3.14なんて面倒くさくて嫌だとたしかに
思う、計算間違いもたぶんする、でも、円周率が小数点以下限りなく続く
特別な数なのだということは、おそらく誰だって知っている。
寺子屋の教科書を見たことはないが、たとえば355/113といった近似値
ははるか昔から知られており、少なくとも、円周率が整数の3でよいという
無知な教え方はしていなかっただろうと思う。
もし江戸時代の教育水準が低く、明治の近代化に失敗していたら、
日本は西洋の植民地として蹂躙されていたかもしれない。こう書くと
大袈裟だけれど、教育の重要性は、突き詰めるとそういう点に行き着く。
最近の大学生は分数の計算ができないらしい。日本の子供たちの計算
能力はアジアの中で最低らしい。
日本人がどんどんバカになっていく。自らそうなっていく。
歴史教科書の記述には反発するアジア各国も、算数の教科書の内容には、
「これで日本を追い抜くのも時間の問題だ」とほくそ笑んでいるかも
しれない。
2001年4月7日
土浦から常磐道に乗る。三郷まであっという間に着く。
首都高は向島辺りで渋滞していたが、さほどひどい渋滞ではなく、
久しぶりの都心の景色をぼんやりと眺める。
個人的に、幼いころの都心の印象というのは、二つある。一つは
新宿や上野界隈に多かった乞食(ホームレス)の姿。
そしてもう一つが首都高から見たビルの林立風景(とりわけ夜のネオン
サイン)だ。どこまでも連なるビル群の中を入り組んで走っている首都
高速は、大人になった今でも、都心の象徴として焼きついている。
新宿や渋谷など一つ一つの街を切り離して見ると、仙台あるいは札幌
と規模的には大差ない。だが、首都高に乗って銀座から新宿まで都心を
横断してみると、その差は歴然としている。東京はなんてデカイんだと、
改めて感じた。
高速から満開の桜が見えた。数日前の天気予報をくつがえし、東京は
晴れていた。中央道で八王子インターへ。
実家には30分もいず、上野公園にての花見に参加。疲れていたし、
眠かったのだが、いつの間にか元気になり、夜まで飲んでいた。
2001年4月6日
仙台に4泊する。卒業後も仙台へは何度となく遊びに来ていたが、
4日間もいたのは初めてのことだ。最初は4日間もあって何をして
過ごそうかという気もしたが、部の先輩後輩、研究室、バイト先の知人など
いろいろ訪ねているとあっという間に日付がすぎた。
卒業後4年も経つと、駅前に知らないビルが建っていたり、
新しい地下駅が完成していたり、誰かが結婚していたり、就職が決まって
どこかへ引っ越していたり、色々な変化があるけれど、
実際仙台で顔を合わせた人は、不思議と昔からほとんど変わっていない
ような気がした。「お前もな」と言われそうだが……
仙台を発ってからは、国道6号を南下する。この道は学生時代、
自転車で東京まで走ったことがある。自転車で1日で走ったのだから、
まして車なら楽勝だろうと思ったが、けっこう長かった。
日立を通過し水戸へ至る手前、それまでの狭い視界が急に開ける
場所がある。山と海に挟まれ小刻みなアップダウンを繰り返していた道が、
突然そこから広大な関東平野に突入するのだ。北海道の広さとはまた
比べようもないのだが、関東に帰ってきたことを感じられるお気に入りの
風景である。
水戸では前の会社の同期宅にお世話になった。"おっと"ぶりに感心。
2001年4月2日
東日本フェリー函館−大間、1時間40分。乗っている間は暇。
海上から見た函館山がやけに巨大で驚く。
せっかくだから本州最北端の大間岬に寄っていこうと思ったが、
走っているうちに通りすぎてしまい、あきらめる。本州に入った途端、
道がせまい。車線は1つだし、歩道や路肩もせまい。国道4号に
合流するまでの下北半島の区間が非常に長く感じた。
岩手県北に建設途中の東北新幹線を見かける。この辺りはほとんど
完成しているようだ。八雲(北海道)では新幹線新駅建設予定地の看板を
見たし、札幌の庁舎には北方領土返還と並んで北海道新幹線早期建設の
垂れ幕が掛かっている。個人的には、無駄な高速道路や意味のない地方空港
を造るなら、むしろ新幹線のほうが需要があるとは思っているのだが。
盛岡都市圏からやっと2車線になり、道路標識には「仙台○○km」という
案内が登場する。盛岡を過ぎると周りの景色から雪がほとんど見えなく
なった。
北上辺りで夕暮れ、仙台市内に入ったのが午後9時ごろ。大間から約
10時間の道のりだった。
都心部を避け、泉中央から荒巻、北山、八幡を抜けて川内に至る道を
通る。かつて通学路として毎日使っていた道だ。卒業後も仙台には何度も
来ていたが、ここを通るのは4年ぶりのことだった。道が狭く、急で、
電信柱が邪魔で車がすれ違えない。自分が、札幌の広くて平坦な道に
いつの間にか慣れてしまっていたことに気づいた。危うく道に迷ってさえ
しまうところだった。
最近大雪が降ったらしく、青葉山には雪が残っていた。
2001年4月1日
室蘭−大洗とか、苫小牧−仙台という航路もあるのだが、できうる限り
陸路を使って帰ろうと最初に決めていた。どの辺りで雪がなくなるのか、
どの辺りから桜が咲き始めるのか、そんな風景をのんびり眺めながら
走るのも楽しいだろうと思ったからだ。
札幌を出たのが11時。日本海側の国道5号を選ぶ。苫小牧経由、中山峠
経由という選択肢もあったが、今まで一番通っていない道ということで
小樽・余市経由にした。さすが日本海側ということがあってか、雪が舞った。
そのあと雪は降らなかったから、最後の降雪になった。
長万部の手前で車の購入後走行距離1万kmを突破。最終的に実家に着く
ときには1万1千を軽く越えた。
太平洋側に出ると道端にも雪はほとんどない。天気良く、噴火湾を隔てた
海の向こうに駒ヶ岳の姿がくっきりと見える。
夕方5時、函館着。スキー場のバイトで一緒だった人の実家があり、
泊めていただく。