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 過 去 の 日 記 
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2001年2月28日

 2月最後の日、札幌市内の気温はプラス5度、スキー場の気温も氷点を 越えた。降ったのは雨ではなく、雪だったが、いつものようなサラサラの 粉雪ではなく、ベチョベチョの雪だった。
 灼熱の雪という言葉を聞いたことがある。本来硬いはずの鉄は、千度以上 に熱せられ、融点が近くなるとドロドロに軟らかくなる。雪も同様に、本来は 冷たく乾いているが、〇度近くなると融け始めてドロドロになる(=灼熱の 状態)というわけだ。
 札幌の雪が雪印の結晶の形そのままで降っているのに感動したと、関西出身 の後輩が言っていた。スキー場のリフト降り場の構内で、雪を竹ぼうきで (あたかも砂を掃除するように)掃くことに、最初強烈な違和感を感じた。
 今日の雪はいささか重く、そして熱い。

2001年2月27日

 スキー場で携帯電話の落とし物があった。たまたま俺が受け取ったのだが、 ややあってその携帯がピロピロと鳴った。
「もしもし」と出る。赤の他人の携帯に出るというのは、なんとなく 気恥ずかしい。電話口の相手は、こちらがスキー場の係員だというと、 ほっとしたような口調になった。第一リフトの山頂で保管していると伝え、 それで一件落着となる。
 携帯電話の落とし物、忘れ物というのは年々増えているのだろう。 旅行会社のときには、海外のホテルに忘れたというお客様が何人もいた。 携帯は、拾い主が善人であれば、電話なだけに連絡が容易につき すぐに見つけることができるが、そうでない場合、個人情報が悪用される 可能性があるというから、恐い話である。
 個人的に、今までやばいと思った忘れ物は2回ある。
 1回はたしか中学の時、美術の授業で製作中の作品を、電車の網棚に 忘れたことがあった。完成間近で今さら作り直しもできず、かなり焦って 駅の遺失物係を尋ねたように記憶している。
 もう1回は社会人になってから。宮城県北のレストラン に財布を忘れ、数十キロ走ったのちに気づいた。現金はともかく、 免許証、クレジットカードなど全て入っており、状況としてはかなりの 危機だった。
 どちらの場合も、幸いにして無事戻ってきた。世の中まだ捨てたものでは ないのか、それとも単に運がいいだけなのか……

2001年2月26日

 昨日からずっと雪が降っている。車は埋もれているし、荷物を積むのは 大変だし、そういえば、仙台から引っ越すときも大雪で、借りた軽トラの 運転に苦しんだのを覚えている。そのくせ、たまに晴れ間がのぞいたり するから癪だ。
 今朝、テレビでは反町と松嶋の結婚を報じていた。3年ほど前に、松嶋 菜々子と二人きりでエレベーターに乗ったことがある。
 午後になったぞ。いいともの時間だ。引越屋早く来い。
2001年2月25日

 引っ越しの片付けが全然終わっていないのに、ホームページの更新などを している。

 いま住んでいるところは、最寄りの地下鉄の駅まで徒歩5分。地下鉄 東西線に乗って5駅10分で大通である。通学・通勤時間がここまで短いのは、 歩いて1分だった小学生時代以来のことだった。8時半くらいの起床でも 余裕で間に合った。
 スキー場は圧倒的に遠く、始業が早いこともあって毎朝6時20分の 起床。これは辛い。
 目覚まし時計の音が嫌いな俺は、学生時代から、テレビを目覚ましとして 使っている。6時台でも、8時台でも、たいていニュース、ワイドショーネタ 、そして天気予報、占いと続く。これは毎朝決まった時間に決まったコーナーに 切り替わるので、時計代わりに便利である。
 6時35分過ぎの心理テストを見て、すぐに家を出ると、地下鉄に ぴったり間に合う。最近はそれがお決まりになっていた。
 では、その中から一問。

「あなたはカバン屋で新しいカバンを買おうとしています。 次のうち、どのカバンを選びますか」

  1.丈夫で長持ちしそうなカバン
  2.いろんな機能が付いていて便利そうなカバン
  3.おしゃれで個性的なカバン

 答は、来週にでも。
2001年2月23日

 コロンブスは、インドを目指し、アメリカ大陸を"発見"した。 そんなことは誰でも知っている常識とされている。
 メキシコシティという都市がある。そこはかつてテノチティトランと 呼ばれていた。アステカ王国の首都として栄えたその街は、テスココ湖 という巨大な湖の中の島に浮かぶ、美しい湖上都市だった。
 つい最近、「地球の歩き方メキシコ」を読んで、初めてメキシコに そんな歴史のあったことを知った。他の本を探すと、もう少し詳しい 記述がされていた。
 現在の教科書はどうか知らないが、少なくとも俺が持っているおよそ 十年前の世界史の教科書には、たった2行弱、コルテスが1521年に アステカ族を滅ぼしてメキシコを征服した、としか書かれていない。 そこには、アステカが立派な文明を築いていたという印象は少しもない。
 どおりで、まったく習った記憶のないわけである。
 太平洋戦争を大東亜戦争と美化した歴史教科書の話題がニュースに なっているが、問題にすべきことは、きっとその時代についてだけではない。
 コロンブスはアメリカを"発見"したのではなく、到達した。
 日本人の大半に、いまだ欧米を偏重し、アジア、アフリカ、そして中南米 の国々を軽んじる傾向があるのは、そんな歴史の比重にも問題がある (まあ、この辺りは、日本人だけの問題ではないが)。
 とりあえず、メキシコシティに、積極的に行ってみたいと思うようになった。
2001年2月21日

 雨男とか晴男という言葉がある。
 学生時代の某先輩は、悪名の高い雨男で、遊びに行った先で 雨が降り始めたりすると、その先輩が近くにいるんじゃないかなんて、 罪もないのに陰口をたたかれるほどだった。
 会社のある後輩は、自称かなりの雨女で、たしかにそいつが休みの日は、 雨が降ることが多かった。
 それに倣っていうと、最近の俺は風男だ。
 スキー場バイトで、週に1回か2回、ナイター営業の勤務があるのだが、 俺がナイターの日は、なぜか強風が吹き荒れてリフトが止まってしまうことが 多い。しかも、元の予定を変えた(誰かとナイターの日を交替した)日に いたっては、4回中2回が中止になっている。今日もそうだった。
 交替しなければ、穏やかな風だったんじゃないのか?
 しまいにナイター勤務を外されてしまったりして……。

 おかげで予定より早く帰ってきたのだが、南郷七丁目の駅を出ると、 小が降っていた。わお。
2001年2月20日

 最近やっと暖かくなってきた。
 どうにかプラスになる程度だが、なんとなく嬉しい。
 本来は冬好き雪好きだけど、さすがに早く春になってくれという気分だ。

2001年2月18日

 今夜のテレビで「シュリ」をやっていた。
 映画をよくよく見ていると分かるのだが、韓国の車のナンバーは、日本の それとそっくりである。やや寸胴な白と緑のプレートに、数字が4桁書かれている。 上部に都市名と2桁の数字があり、左端にハングルが一文字あるという構成 まで同じ。
 その他、ビルの非常口の表示であるとか、街の道路標識など、いろんな 場所や部分のデザインが、韓国のものは日本のそれに似ている。
 数年前、韓国を初めて訪れたとき、俺はそれらの相似点を少々意外に思った。 おそらく韓国が日本のデザインを模倣しているのだろうが(違っていたら ごめんなさい)、なぜ嫌っているはずの日本を真似ているのだろうと。 ちなみに台湾は、アメリカに似た、数字とアルファベットの入り混じった 細長いナンバープレートだったように記憶している。
 とはいえ、似ていることは、親近感を感じる部分でもある。
 隣の国だから、似ていて当然。ごく単純に、そう思っていればいいのかも しれない。
 これからはそういう時代だ。
2001年2月17日

 ポールボード、スノープル、スノースクート。こういった言葉を 聞いたことがあるだろうか? 字面から、なんとなく想像はつくかもしれない。 いずれも、スキー場で使われる滑走アイテムの名称である。
 キックボードの雪上版と言えば分かりやすいだろうか。板の上に両足を乗せ、 前部のハンドルを握って方向を操作する。足の固定の仕方や、 ハンドルの自由度によって、形状や乗り方が異なり、名称も違う。
 個人的に乗ったことはないのだが、最近よく見かけ、気になっている。 スノースクートと呼ばれるものが最も構造的にごつく、札幌国際では、 初め滑走が禁止されていたが、今週あたりからリフト乗車に限り使用が 認められたらしい。今日は土曜日ということもあって、けっこう頻繁に 乗っている人を見かけた。
 初めてスキーをしたのはもう十年以上前だが、その頃はスノーボード すらまだ見かけなかった。以前は嫌われ者だったボードだが、今は 滑走制限のあるスキー場のほうが珍しいだろう。ファンスキーも、もはや 当たり前に見かける。
 果たして今後、どれが流行争いに生き残っていくのだろう。
 結局は、スキーとスノーボードしか残らない気もするが。
2001年2月16日

 午後、紋別からこれまた凍りついたサロマ湖を経て、内陸へ。
 真冬の道東、あるいはオホーツク沿岸と聞いて、どんな印象を抱く だろう? 雪と氷に閉ざされた極寒の地のようなイメージがあるが、実際は 違う。気温の寒さは確かだが、晴天率が高く、雪は少なく、路面は乾いていて 明るい。
 それが、道央に向かうにつれ、雪深く、天気も悪くなっていく。
 標高1050メートルの石北峠を越え、層雲峡へ。ここは、黒岳への ロープウェイが発着するなど、大雪山の表玄関として知られているが、 冬の間は氷爆まつりという催しで観光客を集めている。
 「氷爆」というその名称が前から気になっていた。雪まつりのように、 巨大で凝った雪像や、緻密なデザインの氷像があるわけでなく、自然の地形 である川に沿って氷の舞台や階段が造られ、赤や青や緑の光に照らされている。 単純と言えばそうだが、周りに余計な明かりが少ないぶんだけ、 暗がりに映えていた。
 北海道に来て一年半。函館も、洞爺も、小樽も、富良野も、阿寒も、根室も、 そして紋別も、宗谷も、ひととおり行った。あと行ってないのは、襟裳くらい かなあ…。

 今夜11時、羽田空港から国際チャーター便の第一便が飛ぶ。
 ながらで見ているニュースステーションから、そんなニュースが飛び込んで きた。もう旅行業とは関係ないとはいえ、この手の話題はどうしても 注目してしまう。
 書き始めると長くなりそうなので、いずれまた。
2001年2月15日

 前の連休、友達を誘って流氷を見に行った。
 一日目、日本海側をひたすら北上する。
 視界を遮るものは、雪ではなく風。吹きつける強風が地吹雪を生み、 ひどいときには五メートル先が見えない。前を行く車のテールランプを 頼りにして、ノロノロ運転で進む。
 宗谷岬に着いたのは夜。かつて八年前の夏に訪れたときは、多くの観光客 で賑わっていたが、雪の降る冬の夜とあっては、日本最北の地を示す 三角の碑が、寂しく妖しくライトアップされているだけだった。
 二日目午前、オホーツク沿いを南下。
 南へ行くにつれ、雲が晴れ、青い海と白い陸地の景色が広がる。その間を、 ほぼまっすぐに道路が延びている。立ち寄ったクッチャロ湖の湖面は凍り ついており、わずかに残った池のようなスペースに数十羽の水鳥たちが あつまっていた。
 海の彼方、水平線のあるべき位置に、うっすらと白い線が見えるようになる。 海岸に視線を移すと、着氷した氷がきれいな緑色に染められていた。
 そして紋別。鉄道がないのに市の中心部に駅前通りを持つこの街は、網走と 並ぶ流氷観測のメッカ。紋別流氷まつりが開かれ、大勢の観光客が集まって いた。雪像や氷柱、雪で造った迷路や滑り台が置かれ、さながら札幌雪まつり のミニチュアという感じだ。舞台では、小柳ルミ子のショーが予定されて いた。
 小柳ルミ子には会わず、砕氷観光船のガリンコ号に乗る。大勢の カモメと、なぜか黒いカラス、そして天然記念物のオオワシ。船を追って 飛んでくる彼らのほうが、流氷よりもむしろみんなの関心を集めていた。 餌を投げる人も多く、餌のこぼれた流氷の上に、カモメたちが群がって いた。日本中どの観光船でも見られそうな光景であるが、この季節この地方 でしか、見られぬ景色なのである。
  16日の日記につづく……。
2001年2月13日

 遂にやってしまった。
 車の事故。追い越しでスリップし、他の車と接触した。
 互いに怪我なく、車の損傷も軽微で、 「うるさいことを言おうと思えばできたが、対応もきちんとしていたし、 (保険で)車が元に戻ればいい」と、相手もいい人で、まさに不幸中の幸い。
 HISで身につけた謝罪能力のお陰もあったかな..
 ひとまず保険の手続中。
 安全第一。反省。
2001年2月9日

 今週、札幌市の人口は2倍になっている。
 大通、すすきの、真駒内の3会場で、雪まつりが開催されている。
 去年、会社の2階から会場が眺められたのを覚えている。

 仙台に住んでいたころ、東北の冬は厳しいと思った。
 北海道の冬の厳しさは、格が違う。その分、ずっと美しく見えるときがある。

2001年2月6日

 バイト先に、染の助染太郎に似ている部長がいる。毎朝(必ずしもでは ないが)、見回りを兼ねてリフトに乗ってくる。
「今日は寒いな」とか、「今日はここなのか(日によって配属のリフトが異なる ので)」とか、たいていは、まあ、そんな一言二言がある。
 その木村染の助似の部長との今朝の会話。
「木舟くんは、工学部だったのか? 何を専攻していたんだ」
「機械です」
「そうか、機械工学か。(少しの間をおいて)このあとの あてはあるのか?」
「いや、旅行にでも行こうかと思っているんですけど」
「そうか、気ままでいいなあ」
「いえ……」
 とまあ、そんなやりとり。
 一瞬、勧誘されるのかと思ってドキドキした。

2001年2月5日

 最近迷っていることがある。
 それは、旅に自転車を持っていくか、否か。
 これまで、海外には幾度となく行ったことがある。自転車を持っていった 旅行もあれば、持っていかなかった旅行もある。自転車を持っていくことに よる利点も、そして欠点も、どちらも知っているつもりだ。

 自転車旅行の利点。それは、たぶん経験者にしか理解できないし、 また人によっても違うかもしれないが、知らない道を自分の力で走る、 その心地よさに最大の喜びがある。
 風景を眺めるのに最適な速度、それは自転車である。と、そんな話がある。 バスや列車はたしかに速い。だが、速すぎて景色がすぐに流れてしまう。 自分の好きなところで簡単に止まることもできない。 いっぽう、徒歩はあまりに遅すぎる。
 古来、人は旅に馬を利用していたが、自転車の速度と利便性は、 旅という目的において、馬に似ている。速すぎず、遅すぎず、丁度いい。
 バスや鉄道に頼ると、どうしても都市や町、観光名所をつなぐだけの 旅行になる。自転車を使うと、旅行者など誰も訪れないような、 その間の平凡な町村を知ることができる。まあ、月並みに言えば、「点」 ではなく「線」の旅になるということだ。

 では、自転車旅行の欠点とは何か。それはまず、自転車が荷物になると いうこと。荷物の重さは旅の重さ、という格言があるが、自転車は乗ってい ないとき、約10kgの鉄の塊となる。故障もするし、そのための装備も 持っていかないといけないし、盗まれる可能性だってある。
 インターネットなどで色々調べてみると、自転車で世界一周なんて酔狂な ことをしている人は、実にたくさんいるらしい。4年間かけて8万km以上を 走ったとか、そんな話がいくつか見つかった。
 4年間は無理だ。31歳になってしまう。
 明確な理由はないが、20代のうちに帰ってくるというのは、なんとなく 自分の中での不文律だった。貯金だって、それに気力だって、たぶん そんなには続かない。
 地球という広大な舞台を相手に考えたとき、自転車は遅すぎるのだろうか。
 それであれば、いっそ10kgの鉄の荷物を捨て、身軽に動くことを優先 したほうが、自分の行きたい所や見てみたいものを、全て回ったほうが いいのではないだろうか。

 さてさて。
 人間不思議なもので、いったん自転車を否定すると、今度はなぜだか、 やっぱり自転車を持っていきたいという気持ちが沸々と湧いてくる。
 写真でしか知らないあの道を走りたい。あの国境を自転車で越えてみたい。
 毎年発行されているサイクリング部の部誌がある。去年の春に送られて きた最新号を、実は中身をほとんど読んでいなかったのだが、ちょいと めくってみた。さすがに現役生は固有名詞が分からないのだが、巻末のほうに、 知った名前の文章がいくつか載っていた。
 自転車のある旅の風景。

 俺はもう少し迷うことにした。そのために、旅立ちまでの期間を 空けたのだから。

2001年2月3日

 掲示板、再設置しました。 よろしければご来訪下さい。

 学生時代に冬の東欧へ旅行したとき、俺はその寒さを少し恐れていた。 なぜならその年の新聞に、ルーマニアにマイナス20度の寒波が訪れ、 凍死者が相次いでいる、という記事を見つけていたからだ。 当時住んでいた仙台はせいぜいマイナス5度がいいところで、 それでも東京よりははるかに寒く感じていた。まして、とてもじゃないが マイナス20度などという数字は実感ができなかった。
 結果、俺が訪れた頃はいくぶん暖かくなっており、俺はマイナス20度 を体験することなく、無事に旅を終了していた。

 そして今日、国際スキー場の標高1100メートルの山頂は、 マイナス20を軽く突破し、温度計の水銀柱は25の目盛りに迫っていた。
「今年一番の寒さじゃないですか?」
「全日券で来ている人(全日券とはスキー場のシーズン券のこと。つまり、 来慣れている人)が、実感込めて今日は寒いって言っていたよ」
 俺たちは小屋のストーブにあたりながら、そんな会話を交わしていた。
 正午を過ぎてもまったく気温が上がらず、寒すぎてリフトに乗客はなく、 「暇ですねえ」  俺があくび混じりにそんな言葉を発したとき、女性の呼ぶような声がした。
 修学旅行の女子高生が騒いでいるだけだろう。俺は最初そう思ったが、 その声はもっと距離の近づいた大きさでもう一度聞こえ、俺は戸口に寄った。
 声の主はスキー学校のインストラクター、慌てた表情で言った。
「すいません。ちょっと来ていただけますか。一人、具合が悪くて動けなく なってしまった子がいて……」
 俺はそのインストラクターのあとについて、零下20度の外へ飛び出した。 すると、降りしきる雪の中、力なく倒れている男子生徒がいた。 顔は赤く火照り、呼びかけに対する返事は虚ろで、肩を貸してどうにか 歩けるという具合だった。
 小屋の中、ストーブの前に座らせると、彼がいかに寒がっているかが分かり、 俺は少し恐くなった。
 鼻は白く凍りついたようで、手袋を脱がせた手は真っ赤で指を動かすこと さえままならず、身体全体ががくがくと震え、しかも、何度もしゃくり上げて 今にも泣き出しそうだったのだ。
「寒かったです…、寒かったです…」
「だいじょうぶ。これよりひどく手が真っ黒になってしまった例を 見たことがあるから」
 もう一人のリフト係の人は、よく分からない慰めかたをしていた。
 ややあって、パトロール隊が毛布を持ってきた。 そのころになると、その生徒もようやく落ち着いてきた。コーヒーの注がれた 紙コップを、どうにか自力で持てるようになった。
 俺は最初、高熱を出してしまっているんじゃないかと心配していたのだが、 どうやらだいじょうぶそうだった。山麓に連絡をつけ、ゴンドラで下って もらうことになった。インストラクターの女性はほっとしたように、 「他の生徒たちがいますので」とすまなそうに言い、小屋の外へ出ていった。
 生徒は広島の廿日市という町から来ていた。
「どこに泊まっているの」俺が聞くと、彼は短く答えた。「ミリオーネ」
 定山渓温泉ホテルミリオーネ。テレビCMも流している札幌ではちょいと 名の知れたホテル。
 場が少しだけなごんだ。
2001年2月2日

 札幌の地下鉄には地上を走る区間が少しだけある。12月、バイトを 始めたばかりのころ、その地下鉄の中から、東の空に朝日が昇るさまが見えた。
 最近、家を出る6時半過ぎ、やっと十分明るくなった。
 去年の6月、飲んでカラオケに行ったその帰り、3時台なのに もう空が白んでいて、唖然としたことを覚えている。
 北海道の季節感は、雪だけでなく、そんなところでも少し違う。

2001年2月1日

 札幌市内で最高気温4度という久しぶりの暖気は、山あいのスキー場に 秒速30メートルという強風をもたらした。そのお陰で、ゴンドラもリフトも 終日運休。尾道や鳴門といった遠方からはるばる来た修学旅行の生徒たちには、 いささか気の毒な一日であった。
 そして、スキー場中腹の小屋の中で軟禁状態となった俺は、 猛烈な吹雪の音を聞きながら一冊の本を読んでいた。 その本の題名は『深夜特急』。デリーからロンドンまでを乗り合いバスで 行ってやろうという貧乏旅行の話である。
 実を言うと、俺は旅行記の類があまり好きではない。テレビの紀行番組も ほとんど見ない。
 旅行が好きなのになぜ、と意外に思われるかもしれないが、それは、 いちゃつくカップルを見ているとむかつく感情に似ていて、羨ましいと いうひがみが半分と、その旅のスタイルが気にくわないという気持ちが 半分ずつ入り混じっていた。
 今まで『深夜特急』を読んだことがなかったのは、おおむねその前者の 理由による。バックパッカーの聖典とまで形容されると、逆にわざわざ 読んでみようという気がおきなかった。ただ、図書館の書架に並んでいるの を見つけ、せっかくだから読んでみるか、そう思って借りていた。
 まだ全3巻のうちの初巻の途中までしか読んでいないが、さすが 有名なだけのことはあるなと、それが素直な感想。旅は、他人の為した跡を 見聞きするものでもなく、他人に販売するものでもなく、 自分が行くのが一番、そう再認識させられる面白さがある。
 そんなことを思いながら窓の外を見ると、相変わらず景色が白い。 春の遠さがややうらめしい今日この頃であった。



表紙