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多民族かつ多言語国家であるインドのお札に、17種類もの言葉が書かれているというのは知られた話だが、中国のお札にも、漢字のほか、アラビア(ウイグル)文字、チベット文字、モンゴル文字など複数の言語表記がある。私たちには中国人=漢民族のイメージが強いが、言葉も宗教も異なる多くの民族が、この国には住んでいる。 首都北京で見かけた多民族国家中国の歴史と現実を、断片的に書き散らしてみる。 まずポタラ宮。このたび天安門広場の片隅に模型が造られていた。中国語では西蔵と表記されるチベット、その首都ラサに建つ宮殿である。このミニポタラ宮の出現は日本でも報道されていて、9月15日付けの朝日新聞朝刊は次のように紹介している。 「10月1日の国慶節(建国記念日)を控えて、北京の天安門広場に、チベット仏教の象徴であるラサのポタラ宮のミニチュアが設置された。ポタラ宮は7世紀に建造された宮殿で、チベット仏教の最高指導者である歴代ダライ・ラマが暮らした。本物は高さが約117メートルあるが、ミニチュアは高さ約10メートル。広場の西端に設置され、背後には全国人民代表大会など重要な会議が開かれる人民大会堂がある。 今年7月、ラサと青海省西寧を結ぶ青蔵鉄道が全線開通し、開通式典で演説した胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席は「民族の団結」を強調した。鉄道効果で、中国ではチベットへの観光ブームが起き、世界遺産に指定されているポタラ宮も入場者が激増。(後略)」
私は残念ながらチベットを訪れたことはないが、インドの仏教聖地ブッダガヤで、祭典に参席したダライ・ラマ14世の姿を見たことがある。集まった多くのチベット人が「Free Tibet(チベットに自由を)」と書かれたマスクをしていたのが印象的だった。ポタラ宮の本来の居者であるダライ・ラマはインドで亡命政権を樹立しており、独立を目指すチベット人の動きに、中国政府は神経を尖らせている。中国政府としては、五輪を機にチベットが中国の一部であり、かつ「良好な」状態であることを宣伝したいのだろう。ミニポタラ宮は、多くの中国人観光客にとって格好の被写体となっていたが、ポタラ宮の背景として造られたヒマラヤとおぼしき白嶺は、いかにもハリボテ然として見えた。 チベットと同様に独立運動が絶えない地域として、新疆ウイグル自治区が挙げられる。北京市内を歩いていて、チベット系の人や店はあまり見かけることがなかったが、ウイグルの人々や「清真」と書かれるイスラム料理の店は多かった。上海や蘇州でも、烏魯木斉(ウルムチ)と書かれた看板や、名物の串焼きを並べた店をよく見かけたから、思うにウイグルの人々のほうが、したたかに沿海部の都市に出て商売しているのだろう。以前ウイグルを旅したことがある私は、とても懐かしく思った。きしめんのようなウイグル式の麺料理ラグメンはお薦めで、本来イスラムは飲酒を禁じているのだが、中国国内のムスリム(イスラム教徒)はお酒に寛容であり、併せてビールを注文することもできる。
チベットやウイグルとは逆に、中国を支配した民族の足跡もある。北京観光の中心的存在である故宮博物院も、その1つだ。紫禁城とも称される歴代皇帝の居城であり、中華文明の核心のような場所に、かつてこの国を支配した異民族の文字が掲げられていると知って、私は最初意外に思い、次いで納得した。のちに書き換えられてしまった一部を除き、多くの門や殿の扁額が、漢字と、モンゴル文字を改良した満州文字の併記となっている。これは20世紀の初頭まで中国を支配した清帝国が、満州族の王朝であった証である。 清の歴代皇帝は、自分たちの出自が満州であることを大事に考えていたようで、彼らが残した碑文などにも、満州文字が刻まれているものが多い。ラストエンペラー溥儀が暮らしていた建物も公開されていたが、彼が勉強に使ったというノートには、やはり漢字やアルファベットと並んで、満州文字が書かれていた(実際には清代後期から漢字が優勢になり、彼も、彼の母である西太后も、満州文字はほとんど読めなかったという)。
中国は広い。人口、面積のいずれにおいても、ヨーロッパの総計をしのぐ規模がある。13億人の9割強は漢族であるが、逆にいえば残りの1割、およそ1億人がいわゆる少数民族の人々である。今回は時間もなく訪れなかったが、北京にはチベット仏教の寺院も、中国様式のモスクもある。ひと味違う中国を訪ね、この巨大国家の素顔を探る旅も、おすすめである。 (2006年10月22日掲載)
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