|
杭州から北京へは飛行機を利用した。上海では空港から市街へリニアが走っていたが、北京はバス。オリンピックまでには地下鉄が開通するそうだが、高速を降りたところで大渋滞に巻き込まれ、バスの不便さを感じた。 北京の印象はなんといっても巨大であること。1つ1つの街区が大きく、またそこに収まっている建築物が巨大であるため、地図で見ると近いように思えても、縮尺を確認しないと、とんでもなく長い直線を歩く羽目になった。 北京も上海と同様、至るところが工事現場と化していたが、五輪を控えた北京のほうが、より突貫的に街の改造が行なわれているように見えた。天安門広場の東、歩行者天国の王府井大街から少し南では、洋風で派手な造りをした建設中のマンション群が、ずらりと並んでいた。東京で例えるなら、銀座や日本橋から徒歩で少し離れたあたりといえるだろうか。そんな場所に1街区まとめて高級団地が形成されるというのも驚きなのだが、より印象に残ったのは、通りを挟んだ向かい側に並んでいた大看板である。
数百メートルもの距離にわたって、一列にずらりと並ぶ看板群。『文明創建』などと大書され、未来社会のイメージ像や、綺麗な風景の絵などが、何枚も描かれていた。民間企業の商業広告ではない。政府もしくは党の宣伝看板であろう。 その看板の裏に何があるのかといえば、古びた街並みと、そこに暮らす人々の生活である。 上海でも近代的な高層ビルと古い木造住居が隣り合わせの風景に驚いたが、北京では庶民の住宅が看板に囲われ隠されていた。もちろん人々がまだそこに住んでいるので、生活道路は確保されており、大通りに繋がる箇所は看板が途切れているのだが、繁華街の王府井から世界遺産の天壇公園へと続く道、観光バスで通り過ぎてしまえば、おそらく看板の隙間にのぞく裏路地に気が付くことはないだろう。
一方で北京では、古い街並みを保全し、その観光価値を積極的に活用しようという動きがある。故同(フートン)と呼ばれる路地が市内各所に点在しているが、その中で故宮の北西、前海と後海という2つの池を中心とした界隈は、観光地区として整備が進んでいる。池に面してお洒落なレストランも立ち並び、故同の町並みや伝統的な住居を巡る、観光ガイドを兼ねたサイクルリキシャ(輪タク)の客引き攻勢が激しかった。 オリンピックを2年後に控え、北京は街全体が熱を帯びていた。私自身は生まれる前だが、おそらく1964年の東京五輪のときも、新幹線が走り、首都高速が造られ、似たような雰囲気だったのだろう。 最近、日本橋の上空に架けられた首都高速の移設話が浮上している。あるいは谷中や千駄木など、古い街並みが残されている地区の人気が高まっている。日本(あるいは東京)が高度経済成長と引き換えに何を失ったのか、これからの時代を生きる私たちが、何を残し、何を伝えていかなくてはいけないのか。 きっと北京にも、同じような課題が出現しているのではないだろうか。 もちろん日本と中国(あるいは東京と北京)では、国の事情も、広さも、経済発展の度合いも、そして人々の意識の持ち方も違う。しかし、近代化=西洋化という考え方が過去のものとなり、東洋的な価値観が見直されつつある時代の中で、日中両国が、どのような都市づくりを目指していくのか、お互い参考になる点も、きっと多いはずである。 (2006年10月16日掲載)
|