ふねしゅーの地球紀行
    2003年9月
               




●2003年9月19日

 釜山 → 比田勝 (51.8km) 
 強烈な揺れ、水平線が暴れ、絶え間なく飛沫がとぶ。
 釜山と長崎県対馬の比田勝港を結ぶ小型艇は、とんでもない大揺れで、船酔いだ。
 「甲板に立ち、ボーッと前方を眺めいる。大海原の向こうに黒ずんだ島影が霧の中にうっすらと姿を現わす。」そんなふうに想い描いていた帰国とはならなかった。が、ともあれ、
 正午すぎ、日本の大地を踏む。周りから日本語が聞こえる。


  ●2003年9月18日

 鎮海 → 釜山 (49.9km) 
 正午前に釜山着。まず港へ行き、明日の対馬比田勝行きの乗船券を購入。ついに帰国決定だ。港でもらったパンフのバックパッカーズは高層マンションの17階ごく普通の一般宅だった。
 最後の夜、クッパとビール。夕暮れ時に着いた鎮海という町で、海に出た。対馬海峡だ。


  ●2003年9月17日

 海印寺 → 鎮海 (143.1km) 
 いよいよ釜山に向かっての走行。途中の高霊という町は百済と同様に古代日本と関係の深かった加那国の首都らしく、そのことを知らなかったのだが、道沿いに通りかかって王陵展示館に寄っていく。
 夕暮れ時に着いた鎮海という町で、海に出た。対馬海峡だ。


  ●2003年9月16日

 鎮安先 → 海印寺 (111.4km) 
 夕方、海印寺着。高麗時代の13世紀、モンゴルの襲来に対し、仏法の力で国を護ろうとして作られた木版の大蔵経8万枚余りが収められている。さんざん山道を登らされた挙句の奥に辿りついたが、図書室のような書庫に黒い経板がズラーッと並んでいて圧巻だった。


  ●2003年9月15日

 扶余 → 鎮安先 (117.9km) 
 扶余の国立博物館は月曜休み。昨日行っておけばよかったと悔やみつつ、扶余を出る。
 全州を過ぎて進路を東にとる。半島横断の山道になる。


  ●2003年9月14日

 成歓 → 扶余 (97.2km) 
 朝霧がものすごかったが、まもなく晴れてくる。
 今日は百済古都巡り。今回で韓国は3度めになるが、そのメインである。
 まず公州。現在のソウル近郊から遷都してきた百済の都。城址の公山城と武寧王陵を見る。後者は百済全盛期の武寧王の墓があり、中に入れると期待しているが入れず少しがっかりした。
 そして、扶余。西暦538年、公州(熊津)から都を移した百済は660年この地で滅亡する。日本が援軍を送り、唐・新羅の連合軍に敗れた白村江の戦いもこの地だ。勝者新羅の都慶州には多くの歴史遺産が残るのに対し、敗者百済の地はことごとく破壊されほとんど何も残っていない。
 王城のあった扶蘇山、唯一1400年の歴史を生き抜いた城林寺址の五層石塔を見に行く。


  ●2003年9月13日

 ソウル → 成歓 (94.3km) 
 ソウル出発。国道1号線沿いはひたすら街が続く。
 40キロ南下して衛星都市水原。ここには18世紀末李氏朝鮮時代の環形城郭水原葦城が残っている。一周5.7キロの城壁、東西南北の関門や楼閣が並び、万里の長城を小さく円くしたような感じだ。
 韓国にはわりとキリスト教徒が多く、城壁からも、尖った三角の教会が目立った見える。日本とよく似た地形、造りの韓国の町だが、教会の多い点そこだけ違和感がある。


  ●2003年9月12日

 ソウル(0.0km) 
 台風の影響か、雨。出発するつもりだったが、もう一泊。


  ●2003年9月11日

 ソウル(0.0km) 
 今日は旧暦8月14日、明日は8月15日でお盆である。韓国では秋夕(チュソク)と呼ばれ、旧正月と並ぶ一年で最も重要な祝日。大多数の人は帰省し、職場も休み。ソウルの都心官庁街はガラガラだった。妙に多くの西洋人の姿を見かけた。かれらもすることがなく退屈だったのだろう。


  ●2003年9月10日

 ソウル(0.0km) 
 今日は旧暦8月14日、明日は8月15日でお盆である。韓国では秋夕(チュソク)と呼ばれ、旧正月と並ぶ一年で最も重要な祝日。大多数の人は帰省し、職場も休み。ソウルの都心官庁街はガラガラだった。妙に多くの西洋人の姿を見かけた。かれらもすることがなく退屈だったのだろう。


  ●2003年9月9日

 〜仁川 → ソウル(38.2km) 
 外はまた雨。げんなりとする。午後2時着岸。
 小林さんはソウルに住んで韓国語を勉強しており、そこに泊めてもらえることになる。仁川でいったん別れ、小雨の中、チャリでソウルを目指す。
 きれいな舗装。あちこちにあるコンビニ、混雑する車だがクラクションは少なく静か。中国がいくら近代的になってきているとはいえ、やはり韓国はまだその上をいっている。
 日が落ちて暗くなってきた19時、漢江を越え、小林さんの下宿のある新村へ。
 韓国時間19時は、日本時間でも19時。ついに時計の針が揃った。


  ●2003年9月8日

 青島〜(9.6km) 
 中国出国の日。ついに晴れた。晴れたので自転車に乗る。やはり、自転車にも海を、青くでっかい海を見せてやらなければ、イスタンブール・ボスポラス海峡からつないできたアジア横断シルクロードの旅は完結しない。
 最後の昼食、港近くの食堂で三鮮日本豆腐なるものを食う。何が「日本」なのかよく分からないが、揚げ出し豆腐にタコ、エビ、貝が入っていて美味。
 少し遅れて15時ごろ入港。船内は予想通り大半が韓国人。一人日本語のできる係員がいて、一人日本人の乗客がいた。その同乗の小林さんと夕食。船内流通は韓国ウォン。ジンバブエ・ビクトリアフォールズで手に入れた1万ウォン札がここで役に立つ。


  ●2003年9月7日

 青島(0.0km) 
 今日も雨。降っていなければ自転車で海へと思っていたのだが、仕方なく徒歩。
 灰色の空。灰色の海。太平洋。
 インド、パキスタン以来のボロ服を一掃すべく、買い物。
 中国最後の夕食は、見つけた駅前の清真食堂でラグメン。パキスタン、ラワールピンディのウイグル食堂以来。この旅で最も想い出深い料理である。


  ●2003年9月6日

 明村 → 青島(144.7km) 
 記念すべき大陸横断完了の日だが、あいにくの雨。しかも市区に入ってから土砂降り。
 17時営業時間ギリギリで港の発売所着。明後日の仁川行きを確保。


  ●2003年9月5日

 ズボ → 明村(167.9km) 
 今日も雨のち曇り。道は平らで舗装も良く、自転車もとりあえず快調なので距離がはかどる。明日には青島に着けそうだ。
 この日泊まった明村も、行政区画的にはすでに青島広域市の一部に入っている。


  ●2003年9月4日

 泰安 → ズボ(0.0km) 
 山東省天気予報は当たり、今日も雨。泰安の町の水はけは開封以下で、道が海になっている。床上浸水状態で、最深部は腰までつかる。車もバイクも自転車も歩行者もその中をノロノロ進む。これがいつもの風景なのか稀なのかは分からない。ただせっかく直した自転車に早速の大ダメージである。
 よい道、悪い道が繰り返される。昼に止んだ雨が夕方また降ってくる。
 狗肉館という店を見つける。このあたりには多いみたいだ。看板が仔犬の写真なのはどうかと思うが。


  ●2003年9月3日

 泰安(0.0km) 
 泰山に登る。歴代皇帝による封禅は麓の岱廟から山頂の間で行われた。小雨の降る冴えない天気だが、実に多くの人が石段の登山道を上がっていく。
 泰山は歴代皇帝が登った山であるから当然ゆかりの名所が残っている。秦の始皇帝が嵐に遭い、その下で休んだという五大夫松。清の乾隆帝の詩が刻まれている清摩崖。唐の玄宗が彫った紀泰山銘之碑。漢の武帝がここでの景色の素晴らしさは言葉にできないと建てた無字碑。中国史を彩る各時代の英雄たちが勢揃いといった感である。
 頂上の玉皇閣に着いたころは時おり日差しもあり、雲海に浮かぶ周囲の山々が見えた。


  ●2003年9月2日

 曲阜 → 泰安(90.3km) 
 泰安は五岳の一つ、東岳泰山の麓の街。歴代皇帝が封禅と呼ばれた即位の儀を行った岱廟がある。
 岱廟観光をそこそこにすませ、懸念の自転車修理。このあたりが中国人のはっきり言えばムカツクところで、外国製だと分かると面倒臭がって、「ナイ」、「分からナイ」と言う。そこを粘って、とにかく手をつけてもらう。クランクを外し、つぶれたベアリングを交換、軸は適合する交換部品がなく古い部品そのままだが、ぐっと調子がよくなった。ほら見ろ、直せるじゃないか。そして、値段はたったの1元(15円)。これにはびっくりでここが中国のいいところ。インドあたりだと、直せもしないくせに珍しがっていじりたがり、さらに料金をふっかけてくるだろう。しかし、1元というのはベアリング代の実費なのだろうか。


  ●2003年9月1日

 ヤンジョウ → 曲阜(24.3km) 
 曲阜などという町の名は少しも知らなかったが、ここは孔子の故郷である。孔廟、孔府、孔林という孔子と彼の子孫に関する名所がある。もし儒教を宗教と考えるなら、ここはキリスト教におけるエルサレム、イスラム教にとってのメッカ、そして仏教に対してのブッダガヤということになる。
 実際はただのきれいに整備された中国式宮殿建築、庭園、霊園、観光地で、聖地としての重さや熱っぽさはほとんど感じることができなかったけれども。