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ふねしゅーの地球紀行
2003年7月
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最新の日記
●2003年7月31日
高台手前 → 張エキ(手へんに夜)(98.5km)
天気は曇り、風強し。しかし追い風で、思ったより早く午後3時には張エキに着く。立派な造りの 十八しゅう(示すへんに習)賓館、双人 間(そうじんま、二人部屋)が1床につき12元、安い上に キレイ!
かって金張エキと呼ばれ、シルクロードのオアシス都市の中でもひときわ栄えたといわれる張エキ。 明清倣故街という当時の町並みを再現した通りや、街の中心の十字路にドデンと構える鎮遠楼が 雰囲気を出している。今は小さな田舎の小都市だが、その小じんまりさがまた丁度いい。
鎮遠楼から見て北東の一角が緑地になっていて、時代的な造りの回廊がすえられ、週末でもないのに 大勢の人々でごった返していた。夜になると鎮遠楼はライトアップされ、いっそうの混雑、扇子を手に 踊る集団まで現れて賑わっていた。
●2003年7月30日
酒泉 → 高台手前(132.6km)
どんより曇っていてかなり肌寒い。しばらくは緑の田園が続き、やがて沙漠。右手には厚い雲を かぶった祁連(きれん)山脈が見える。再び集落。丘を越え、禿げ山の間を縫って下り、また上がる。 そんな繰り返しに飽きてしまった。
●2003年7月29日
嘉峪関 → 酒泉(25.4km)
嘉峪関から酒泉まではわずか20キロ余りの道のり。10時には到着。
河西四郡の一つ、粛州と呼ばれた酒泉。市としての歴史の印象が薄く、いわば人工的な区画だった 嘉峪関に比べ、雑然とした熱っぽさがある。緑も多く、古くから栄えてきた理由が分かるような気が する。
町の中心の十字路には4世紀来の歴史を持つという鐘鼓楼がそびえ、四方に伸びる道には露店の パラソルが目立つ。市の東部には酒泉公園という名の広い園地がある。漢代の将軍が泉に酒を注いだ ところ、泉からはこんこんと酒が湧き出し始めたという伝説を持つ。
●2003年7月28日
火焼溝先 → 嘉峪関(81.0km)
万里の長城の最西端、嘉峪関へ。北京郊外から延々と続く長城の終点がここだ。敦煌、玉門関そばの 漢代の長城の方が西にあるのだが、そことの関係および何故ここが最西端とよばれるのか、その点は ぼくには謎。
万里の長城の第一トン(土へんに敦)から約7キロ、国道のそばに嘉峪関の城郭群。巨大な建築は ほとんど近年になって復元されたもののように見え興冷めだ。しかもそのぶん入場料が高騰していて とても入る気になれない。
その城郭群をはさんでさらに9キロほど先、山並みにぶつかったところに、45度の傾斜角で長城が 伸びる懸壁長城がある。第一敦から関所を挟んで懸壁長城まで、山と山の間の回廊を長城が完全に塞ぎ 守っている。まさに要衝であることが見てとれた。
さらにもう一歩、中華世界の中央部に近づいたのを実感。
●2003年7月27日
飲馬農場手前 → 火焼溝先(120.5km)
しばらく緑が続き、そして、また砂漠。何度か跨線橋を越えてから、蘭州800余キロという標識が 登場する。甘粛省省都はまだ遠い。
右手に祁連(きれん)山脈の白い山並みが迫ってくる。左手に山が連なり、地形がせばまってきて いるのが感じられる。
●2003年7月26日
安西先 → 飲馬農場手前(105.4km)
昨日から一転、猛烈な逆風。さえぎるもののない沙漠。
夕方、やっと緑地帯。緑があると本当にほっとする
●2003年7月25日
敦煌 → 安西先(136.9km)
お別れビールを頂き、12時出発。薄曇りで追い風。走り易い天気。
沙漠地帯、向こうから自転車4人組が来る。オランダ人で西安からで、このあと中央アジアに抜ける 予定とのこと。この先の新疆の厳しい道のりについて情報を提供する。
安西の町をすぎたところで一人の自転車の男が話しかけてくる。驚いたことに、こっちが外国人だと 分かると英語になった。こういうところで英語のできる中国人に会うとは思わなかった。
●2003年7月24日
敦煌 (0.0km)
情報ノートにカラコルムハイウエイ自転車情報を書く。誰に対してそもそも一体役に立つことがある のか知らないが、情報ノートに何か書くのもこれで最後になるような気がする。
夜になっても隋さんは帰らず。トウ(にんべんに冬)さんと屋台に食事に行き、午前2時敦煌料理店 に戻ってくると、帰っていた。一人でビールを飲んでいた。携帯の電池が切れていたらしい。
●2003年7月23日
敦煌 (0.0km)
ひま。お客も来ない。中国語の勉強などしてみる。単語はけっこう覚えた気がするが発音が問題。
夜になってやって来た大連留学中の2人、彼の方は自衛隊出身、レインジャー部隊の訓練では森の 中で蛇をも食うらしい。
●2003年7月22日
敦煌 (0.0km)
敦煌観光の最後の締めで博物館へ。莫高窟からの発掘品、漢代長城の模型など。
夕方、隋さんは夏休みの娘を連れて蘭州へ発つ。あさって戻ってくるまでお留守番ということに。
●2003年7月21日
敦煌 (0.0km)
小松君ほか玉門関ツアーを共にした面々が去り、代わりにパキスタン、フンザ以来の再会となる 大熊・高田カップルが来る。6月中旬に僕が飛んだ直後に国境が開いたという噂があったが、結局、 開いたのは7月1日だったらしい。パキスタンからの旅行者に会うのは中国に来て初めてだ。懐かしい 話もできて嬉しい。夜、隋さん、トウさんと羊の脳味噌を食べに行く。
●2003年7月20日
敦煌 (0.0km)
一日中ずっと敦煌料理店にいる。夜、チベットからの旅行者3人組を混じえて、飲む。
●2003年7月19日
敦煌・玉門関・陽関 (0.0km)
中華世界の西端とされた敦煌。その西の玄関が玉門関と陽関という2つの関所。敦煌市外から100 キロ近く離れているので、いったんは訪問をあきらめていたがツアー人数が揃った。小松くん、おとと い現れた中国語ペラペラの彼女と友人、そして昨日来た旅行者、瀋陽の留学生、の合計6人。車1台で 300元(4500円)である。
朝7時発の早起きで、まず玉門関。関の跡がポツンと残り、そのそばにはかって川が流れ敦煌から 船が行き来していたという緑地帯。他に何もないが、そのことが逆に歴史ロマンを添えている。
近くには漢代の長城、二千年前のものというのろし用の干草は化石のようになっていた。
続いてもう一つの関所、陽関。残っているのはのろし台だけ。しかし周りに博物館など余計なものが 建設されちょっと興ざめだ。「...君に勧む一杯の酒、西の方陽関を出れば故人無からん」の有名な詩、 この詩にちなんで、旅発つ友を見送り酒を酌み交わす慣わしにならって、持参したビールを空けた。
ツアーの名称は蜃気楼ツアー。ガイドの隋さんは二日酔いで、説明されたことの中で何が本当で 何が冗談なのかよく分からない。車窓から地平に見える山並みや緑地は本当に蜃気楼なのだろうか。 似た風景は既に何度も自転車で見ている気がした。
最後は西千仏洞。莫高窟に比べると小ささは否めないが、同行の中国語ペラペラの2人の通訳の お陰で、時代的違いや、建築様式についての説明も理解できた。
15時、敦煌帰着。遅い昼食。そのまま呑みながら夜を迎える。
●2003年7月18日
敦煌 (0.0km)
何もせず、ただ読書、歓談、休養。
●2003年7月17日
敦煌 (10.8km)
日中は何もせず、成都留学中の小松くんと敦煌料理店でだべっていた。いつの間にか隋さんと料理 担当のトウさんは出かけており、ぼくらはいわば店番状態。足を投げ出してくつろいで喋っていると、 女性が一人入ってきて中国語でベラベラベラとまくしたてられる。完全に中国人だと思っていたら、 日本人だった。中国に7年も住んでいるらしい。向こうもこっちを中国人、店の主人だと勘違いした らしい。
夕方、フランス人と一緒に鳴沙山へ。砂漠といっても新疆などでみてきたものは礫砂漠ばかりだった が、ここのは本当のサラサラの砂(すな)砂漠。歩いて登るのは大変だが、見飽きたはずの砂漠も砂質 が良いと、また違った景色に見えた。
●2003年7月16日
敦煌・莫高窟 (54.1km)
敦煌最大の見所、莫高窟へ。市内から約25キロ、5世紀から15世紀にかけて千年もの間、開窟と 補修が繰り返されてきた超巨大仏教美術博物館である。井上靖の「敦煌」では、宋の時代、西夏による 敦煌征服を怖れて、貴重な経典や絵画を莫高窟に運び込み隠す場面が描かれている。中国語ガイドに 連れられ、地球の歩き方の15頁にも及ぶ解説を頼りに、その経典や絵画の発見された蔵経洞をはじめ 高さ34.5メートルの北大仏や涅槃像など10箇所あまりを見学。併設の博物館にはチベット文字や ウイグル文字で書かれた経文なども展示されており、支配者が変わっても莫高窟は拡大を続けてきた ことをうかがわせた。
夜はまた敦煌料理店へ。日本人女、フランス人、日本人と中国人のカップル、日本人男.....と 大勢に会う。日本人3人がいずれも成都留学中ということで驚いた。
●2003年7月15日
敦煌 (11.7km)
1泊20元の飛天賓館から、隋さんに教わった10元の招待所へ移動。写真の現像。
夕方、漢代に建てられた旧敦煌の城址、インド僧鳩摩羅什ゆかりの白馬塔を身に行く。しかし、 どちらもショボイ。
●2003年7月14日
張家圏先 → 敦煌 (47.8km)
前代未聞の強烈な逆風で歩くのと同じくらいの速度しか出ない。敦煌到着前の最後の試練か。 天気はこの日一日中ずっと悪く、午後には雨も降り出した。珍しく長袖長ズボン着用となる。しかし、 トルファン、ハミとおろせず懸案だった金の引き出しがここの中国銀行でできた。ホッとする。
情報収集のため、旅行者の溜まり場(そんなに溜まっていなかったが)敦煌料理店へ。日本語ペラペラ の隋さんが経営。古い版だが「地球の歩き方中国(全土)編」を交換でもらえることになった。嬉しい。
夜、ここで会った韓国人3人と沙州夜市へ。有名な夜市だがそれゆえに観光客ズレしていて残念。 ビールは高いし、他の町の屋台の方がよかった気がした。
●2003年7月13日
馬蓮井先 → 張家圏先 (133.7km)
いい天気。直線の道。5キロごとに繰り返される黒ずんだ丘。
北京標準時間正午、紅柳園という集落、ここで敦煌方面へ分岐する。少し道が荒れ、交通も減る。 黒い丘が背後に去り、ひたすら乾いた大平地に道一本。
●2003年7月12日
苦水手前 → 馬蓮井先(123.6km)
新疆ウイグル自治区から甘粛省へ。入国からちょうどひと月にしてやっと巨大な新疆を脱出である。 「新疆を見ずして中国の巨大さは語れない」といわれるらしいが、まさにその通り。なにせ西から 東に抜けるのに要した日数はトルコより長く、イランより少し短く、パキスタンとほぼ同じであった。
星星峡という集落が分界。新疆時間午後2時着。休憩をはさんで北京時間4時半過ぎ出発。休んで いる間に空が暗くなり、雨。印象の良くない甘粛第一歩である。
●2003年7月11日
ハミ → 苦水手前(131.2km)
珍しく追い風の日、と思ったら雨が降ってきてまさかの合羽着用。しかし、まもなく止む。
駱駝圏という集落を通過後、集落が絶え一面の砂漠。地図に載り標識にも出てきた畑敦(エントン) という集落は存在せず、ひたすら砂の大地が続く。イランでも同じようなことがあった。
その前後、砂嵐に遭遇。褐色で、地上に降りた雲のようなやつが、右手からやって来て、だんだn 巨大化してきた。にわかに風が強まり、呑みこまれてしまった。砂っけは意外と少ない。視界は塞がれ、 猛風となる。追い風方向で幸い。
突然、一軒の家ポツンと。タイヤ交換、修理屋兼商店・食堂。小さな子供がいて、ここで生活して いるらしい。どう考えても学校などないが、どうしているんだろうと、ふと思った。
●2003年7月10日
三道嶺先 → ハミ(70.1km)
東疆の中心都市ハミ。ビルが建ち並び、そして灼熱。同室の中国人、服装会社に勤めているそうで、 筆談で「日本、服設計、好」と書いてきた。
観光はハミ王墓。清朝を後ろ盾にこの地域を統治したウイグル地方政権の歴代王族が眠る。ここに 残っているイスラムの寺院や廟は木造であり、東洋っぽい建築様式のところもあって、ここの場所柄を 感じさせる。
●2003年7月9日
紅山口手前 → 三道嶺先(153.0km)
紅山口という生活感のない、国道の補給基地として存在するような集落。「四川」、「山東」、 「蘭州」など地名の冠された食堂が多いのは、移住して来た人の出身地を表しているのだろうか。
しばらく山道が続く。向こうから駆け下りてくる二人の自転車旅行者とすれちがう。 彼らは一瞬でいってしまった。横転した積荷のハミ瓜の匂いをただよわせているトラックもある。
●2003年7月8日
ピチャン手前 → 紅山口手前(140.5km)
昨日の後半からずっとゆるい上り坂が続いている。ゆるやかで広い黄褐色の土漠のずっと向こうに、 青い土地が見える。たぶん光の加減で青く見えるのだろうが、実際になんだか巨大な湖か海がそこに あるようにも見える。山の形がそう見えるのだろうが、その青い大地になんだか城壁のような都市の ような形状が浮かんでいるようにも見え、蜃気楼みたいでもある。
●2003年7月7日
トルファン → ピチャン手前(114.6km)
今日は西遊記の世界へ。
トルファンから東へ40キロ弱、左前方に紅い山並みが見えてくる。曇り空、風ありという天候で 「弱火」の火焔山だ。ガンガンに暑い方が火焔を実感できるのだろうが、ここは涼しくて幸い。
これまた意外だったのだが、火焔山のすぐ付近には緑と集落があり、三堡郷というその村の近郊に 高昌城の遺跡がある。残念ながら閉鎖中だったのだが、かって高昌国と呼ばれ栄えたその都城は、 かって玄奘がその旅の途中に立ち寄り国王の頼みもあって2ヶ月も滞在した地、つまり三蔵法師は きっと毎日のように火焔山の炎を眺めつつ説法などをしていたのだろう。
街道に戻り、火焔山の裏手の方に折れる。一面の景色が真っ赤な火星基地みたいなところに、 ベセクリクチ仏洞という石窟がある。仏像などはたいがい破壊され、一部の壁画が残る程度だったが、 周りの風景は最も西遊記っぽさを感じさせる「異世界さ」があった。
●2003年7月6日
トルファン (10.9km)
午前中は曇気味で涼しい。午後になって暑くなる。
蘇公塔という清代のイスラム建築を見たあと、自転車の修繕、タイヤ交換などをする。
夕方、同室に日本人来る。上海に住む留学生だという彼と砂鍋を食べに行った。
●2003年7月5日
トルファン (18.9km)
火州の異名をもつトルファン。朝9時、冷房の効いた室内から1歩外へ出て、その真髄が分かった ような気がした。
午後から夕方にかけてのまだ暑いさ中、市街から西へ10キロの交河故城を訪れる。 その名のとおり2つの川に挟まれた戦艦のような形をした台地に築かれた都邑で、車師前国の都、 唐代には西域経営の役所が置かれていたという。規模は大きく、住居地区、城門、仏教寺そして 街路を含めた町並みが残されている。黄褐色に乾いた砂の景色がなんともシルクロードを感じさせた。
●2003年7月4日
庫米什(コミジ)先 → トルファン (162.4km)
昨日登りつめた峠からトクスンという町まで実に60キロくらいの一気の下り。死海に次ぐ 世界第2位の低地を含むトルファン盆地への突入だ。逆方向の上り坂ではエンコする車が多いの だろう。車の修理屋、タイヤ屋が多い。かくいう僕ももうタイヤが磨り減って限界、パンクを連発 した。
景色がぐんと広がりトクスン。さすがに猛暑。いままで砂漠とはいえ潅木が点在していたが、 それすらない砂と石ころだらけの景色が広がり、その中にやたら立派な幅広の舗装路が地平まで 延びている。
ウルムチ方面の国道314と別れ、国道312に入る。これは遠く上海まで続いている国土横断路 で距離表程4038。つまり太平洋まで4038キロということだ。やる気がでてきた。
珍しい追い風に乗って夕方トルファン着。交通賓館4人間25元。日本語使いの客引きたちが「明日 観光行きましょう」などと暇そうに話しかけてくる。
緑の並木、スプリンクラーの回る広場、音楽の流れる屋台の夜、周囲を砂漠に取り囲まれた灼熱の オアシス都市だからこそ、そこの水と緑、涼しい夜はとりわけ美しい。
●2003年7月3日
鳥什塔拉(ウシタラ)手前 → 庫米什(コミジ)先 (128.5km)
今日も、峠そして工事道との戦い。集落の数は少なく荒涼とした山の眺めが続く。午後の食事休憩で ジュースと同額のビールを飲んだら、そのあと身体が動かなくなった。失敗。
●2003年7月2日
コルラ → 鳥什塔拉(ウシタラ)手前 (132.9km)
コルラ市街を出てすぐに山道に入る。地形的に、鉄門関なる城塞が置かれたわけが良く分かる。
坂はともかく、工事区間の多さには嫌気がしてくる。いたるところ「西部大開発、道路先行」などと いう大看板を見るが、余計なお世話だ。もともとあった旧道をぶっつぶして新道を作り直しているから 迂回路はときに凶悪な砂利道になりタチが悪い。
●2003年7月1日
コルラ (0.0km)
朝、雨が降っている。昨日歩いたせいか足の筋肉痛がひどい。休息のため連泊とする。
きれいに護岸された孔雀川沿いの園地では泳いでいる人もいる。博物館は移転のため休館中。ここは バインゴルモンゴル自治州の中心地で、本屋には縦書きモンゴル文字の書籍も置かれていた。