ふねしゅーの地球紀行
    2003年4月
               



●2003年4月30日

 ガジラット → グジャールカーン 132.2km
 体調、体力というよりもまず足にきた。足首は痛いし、腿もパンパンに張っている。筋肉痛はいつも のことだが格段に強いのは、筋力が落ちているせいだろう。
 ずーっと平坦路だったのが、やがて上り坂。などもバス往復した道。知ってはいたが、大変だ。 5ルピーで飲めるサトウキビジュースが冷えていて美味しい。


  ●2003年4月29日

 ラホール → ガジラット 116.7km
 ひと月半ぶりの自転車旅行。体力的にはまだ完全とはとてもいえず、爆弾を抱えての走行開始だが、 記念すべきラホール出発である。でもやっぱり速度は出ず、距離は伸びない。太陽の熱射もきつい。


  ●2003年4月28日

 ラホール
 洗濯、荷物整理、自転車整備など。自転車はパンクしている上に、交換チューブのバルブと 空気入れの相性が良くなく、空気が入りにくくて苦労する。どうにか出発準備完了。


  ●2003年4月27日

 ラワールピンディ〜ラホール
 午後、ラホールへ。格安バスに乗ってしまったら、町ごとすべて各駅停車で、遅くともせいぜい 夜7時には着くだろうと思っていたら、9時を回ってしまった。前には満杯だった宿、今回はわりと 空いていた。


  ●2003年4月25・26日

 ラワールピンディ
 最後の休養日。日本から履き続けてきたボロボロの靴、ついに買い換え。これで、日本から持って きた衣類や身につけるものの類は全てなくなった。


  ●2003年4月24日

 ラワールピンディ・タキシラ
 ラワールピンディの郊外にある仏教遺跡タキシラへ。往きは列車で行くが、出発時間が大幅に遅れ る。
 タキシラは複合遺跡群で数々の遺構が広範囲に渡って点在している。歩いて回りきるのはちょっと 無理で、オートリキシャを使うことになるが、パキスタン人の家族連れに誘われて同乗することに なった。
 世界で二番目に古い仏教大学があったとされるジョーリアーン、大路を中心に当時の街路が残された シルカップ、巨大なストゥーバのあるダルマラージカ、そして最後に博物館。
 帰りは、くたくたに疲れてたどり着いたウイグル料理店、材料切れでラグメン終了、店じまい仕度 というところだった。愕然とし死にそうになる。


  ●2003年4月23日

 ラワールピンディ・イスラマバード
 ビザの受け取りに中国大使館へ。今度もまたパキスタン人でごった返していて、すぐには入れず。 敷地内、建物内とけっこう待たされてから、ようやく受領。1600ルピー(約3400円)3ヶ月 有効90日滞在。はじめ、パスポートのどこにビザシールがあるのか分からず、さんざん探した。 その挙句、最後のページに発見した。


  ●2003年4月19日〜22日

 ラワールピンディ
 休養の日々。野菜と果物を多めに摂取することに専念。バスを使ってウイグル料理屋にはほぼ連日。 カブール以来の水下痢に、やむをえず嫌いな薬を買うことにする。たまには、そこらじゅうにある パキスタン料理を食いに行ってみたが、味がキツい。やっぱり苦行だ。


  ●2003年4月18日

 ラワールピンディ・イスラマバード
 午前中、中国ビザ申請のため、イスラマバードへ。日本大使館などは大使館街の入口にあり、簡単に いける。しかし、奥にある中国大使館へ行くのは面倒。保安上の理由でもあるのか、往復20ルピーと 法外な値段の専用バスに乗らなくてはいけない。ともあれ到着すると、パキスタン人が群がっている。 でも優先的に窓口にまわしてくれた。申請そのものは楽。はじめ2ヶ月と言われたのを、中国は広大 だから....と頼み込んで3ヶ月滞在がもらえることになる。ほっとした。
 ビンディに戻る前に日本大使館で新聞を読む。イラク戦争のおさらいをする。
夕方、インターネット。全然メールに返事をしていなかったので、60通近くもたまっている。 ぞっとするも、読みきれず。


  ●2003年4月17日

 ペシャワール〜ラワールピンディ
 ついにペシャワール脱出。ラワールピンディのピールワダイバスターミナルまでの都市間移動は わりと楽なのだが、そこから市街地にでるまでが大変。軽トラ改造の通称「スズキ」を乗り継が なければならず疲れ果てた。
 夜、待望のウイグル料理ラグメンを食べに行く。しかし宿からかなり遠く、これまた疲れ果てた。 でも旨し。


  ●2003年4月16日

 ペシャワール・タフティバーイ
 ガンダーラを代表する仏教遺跡タフティバーイへ。1〜7世紀にかけて隆盛を誇った山岳仏教寺院で かなり長い階段を登っていった丘の中腹にある。体力の落ちた身には辛い。
 僧坊、中の院など、岩を薄く削ったものを何層にも重ね合わせる建築技法がとられている。 修復作業があちこちで進められている。日本の援助が入っているらしく、日本語の説明が充実 していた。


  ●2003年4月8日〜15日

 ペシャワール
 寝たきり生活。死亡中。


  ●2003年4月7日

 カブール〜ペシャワール
 アフガニスタン最終日。おとといあたりからたまってきた疲れのせいで体調が悪く、体力と気力を ふりしぼっての最終移動。
 ジャララバードの食事休憩(食べられず)を経て、国境トルハムへ。パキスタン再入国。ほっとする。 バイバル峠を下り、一路ペシャワールへ。建物は立派だし、舗装もいいし、街は色彩豊か。 パキスタンが先進国に、ペシャワールが大都会に思えた。


  ●2003年4月6日

 カブール
 午前中中央郵便局へ。それから日本大使館へ。昨夜宿のおやじから英語が通じないので経緯は 全く分からないが、日本人名義のクレジット機能付き銀行カードを渡され、それを届けに行くことに したのだ。この情勢の中大使館へ行くと何しに来たんだと怒られるらしかったが、カードを届けた ことへの感謝は適当で、結局長い説教をくらった。館内当たり前だが日本人が多く、教育関係の 補助で1,2週間来ている人とかがいた。
 次にカブール博物館へ。展示物が5点ぐらいしかなく、あとは廃墟。すさまじい雰囲気。夕方チキン ストリートで土産を買う。米軍、仏軍の兵士が闊歩し、絨毯などを物色していた。


  ●2003年4月5日

 ガズニ〜カブール
 古都ガズニを散策。活気のある小奇麗なバザールを抜けると、小高い丘に突如茶色い町並みが 出現する。旧市街だが、同じ褐色の土壁の家々といっても、カブールやカンダハルみたいに廃墟みたい な感じではなく、数百年前から変わらぬ風景という感じ。子供達が駆け回ったり、井戸で水汲みをした りしている。旧市街の規模は大きく、さらに広がっており砦にような建物もあった。他にも宮殿や 仏教ストゥーパがあるという話だが、残念ながら見つからなかった。午後カブールへ。


  ●2003年4月4日

 カンダハル → ガズニ
 気分の重い悪路の戻り。同乗の男はカブールに店を持っていたが、内戦から逃げて15年間カラチ に住み、昨年戻ってきたのだと言う。タリバーンをやはり嫌っていた。
 カローラ、途中から冷却水もれが原因と思われるオーバーヒートを繰り返す。最低。砂漠地帯とは いえ、わりと途中に池や小川がある。何度も何度も水をくんで冷却しながらの移動となる。
 5時には着くと考えていたのが8時になりぐったり。


  ●2003年4月3日

 カンダハル
 バザールをぐるりと一回りしたあと、郊外の見所にリキシャを貸切って行く。
 中心部から西に数キロ離れたところに四十階段と呼ばれる遺跡がある。ムガール帝国創始者 バブールの遺構で、おそらくは砦か見張り台のようなものだったと思われる。丘の中腹に階段があり、 登りきったところが展望所のようになっている。カンダハル市街および西部方向が一望できた。 こうして見るとカンダハルにもけっこう緑が多い。意外な感を受けた。
 そのあと、この四十階段から見つけた市の北部の巨大モスクを訪れたところ、これがとんでもない 穴場だった。途中で、リキシャ運転手の兄弟という男が乗り込んできたのだが、彼が少しだけ英語を 話した。曰く、タリバーンのオマル師やビン・ラディンが建てようとしたモスクらしい。そのこと 以上にすごかったのが巨大な本堂内部の驚異的な音響効果だ。パンと一回拍手しただけで、 パタパタパタと繰り返して音が反響、しかもその音が頭に直接的に響いてくるのだ。その響きだけの 効果によって洗脳されてしまいそうな「音の力」である。おそらく実際にこの音響効果を利用しつつ 戦士たちが養成されていったのだろう。


  ●2003年4月3日

 カンダハル
 バザールをぐるりと一回りしたあと、郊外の見所にリキシャを貸切って行く。
 中心部から西に数キロ離れたところに四十階段と呼ばれる受けたアフガン第二 の都市。
 これが第2の都市か!!という強烈な驚きが第1印象。崩れた土壁の町並み。でこぼこの道。 吹きすさぶ砂嵐。月のように白く小さい太陽。破壊の度合いは他の都市に比べて段違いだ。 そんな景色をバックにして、淡々と働き、喋り、そしてこちらをじっと見つめてくるターバン姿の ひげ面たち。都市というよりも、廃墟の中に、生活している人がいる、そんな感じだ。


  ●2003年4月2日

 モコル → カンダハル
 昨日にもましての酷路のうえ、砂漠の雨に降られる。どろどろにぬかるんだガタガタの道。 いたるところ穴だらけの本来の道を外れ、道なき道を走ることがしょっちゅう。
 疲れ切ってカンダハル。タリバーンの本拠として米軍のもっとも激しい攻撃を受けたアフガン第二 の都市。
 これが第2の都市か!!という強烈な驚きが第1印象。崩れた土壁の町並み。でこぼこの道。 吹きすさぶ砂嵐。月のように白く小さい太陽。破壊の度合いは他の都市に比べて段違いだ。 そんな景色をバックにして、淡々と働き、喋り、そしてこちらをじっと見つめてくるターバン姿の ひげ面たち。都市というよりも、廃墟の中に、生活している人がいる、そんな感じだ。


  ●2003年4月1日

 マザルシャリフ → モコル
 アフガニスタンを北から南へ大縦断。カブールでカローラを乗り継いでいく。わりと早く、 15時15分にはカブール発、カンダハル行きにつなげる。しかし、カブールを出てまもなく、 地獄の悪路。同乗の男、ドバイから仕事で帰ってきたところだという。内戦時代にはイランに 住んでいたらしい。2年前にアフガニスタンに帰ってきたら、全てが破壊されていたと 話していた。