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ふねしゅーの地球紀行
2003年3月
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最新の日記
●2003年3月31日
マザルシャリフ
次の目的地、南のカンダハル行きの裏技としてアリアナ航空利用を思いつくが路線ナシと判明。 路線があるのもカブール、ヘラートへ金曜のみ、ということで全然ダメ。
マザルシャリフはアフガニスタン最大の聖地。街のド真ん中に通称ブルーモスクと呼ばれる青を 基調とした巨大なモスクが立っている。預言者ムハンマドの娘むこにして4代目正統カリフ、そして シーア派の祖であるアリーの聖廟。イラクのナジャフにて暗殺されたアリーの遺体は、最終的に、 わざわざこの遠いアフガニスタンまで運ばれて、マザルシャリフのこの地に埋葬されたのだという。
ゴッチンは中に入れず、僕だけ内部に入場できる。男女で違うらしい異教徒の扱い方がよく分か らない。内部は一転して赤と橙を基調とし、中央に柩が鎮座、物凄く重い空気を感じる。
●2003年3月30日
サラン峠先 〜 マザルシャリフ
4時半出発。峠道以外はおおむね舗装状態もよく、やがて緑の大平原に出る。そのまま ウズベキスタンやトルクメニスタンに続く平原だろうか。
午前中のうちにマザルシャリフ着。宿の部屋自体はさしたることはないが、経営者は国際的な 地雷防止活動や、学校経営などもしているらしく、事務所のあたりそこだけが先進国のように 立派だった。
疲れていたので、しばし寝て、それから夕方バザールを歩くが、風が強くなり寒くなってくる。 やはり北の街だからだろうか。
●2003年3月29日
バーミヤン 〜 サラン峠先
長い長い移動の一日。バーミヤンから北の中心都市マザルシャリフへの直行バスがあるという噂が あったが実際にはバスがなく、まずカブール行きに乗り幹線道に出たチャリカルという町で乗り換えろ と教わった。ところが、ハイエースは遅れるし、チャリカルに着いても、ここからマザルシャリフ行き は捕まえることができないという話。どうなっているのか分からず憤慨するまま、今日はカブール泊か と諦めかけた。しかし、状況はさらに一転。アフガンでは夜に車は走らないと思い込んでいたのだが、 実は夜行があることが判明。カブール北端のマザルシャリフ行きバスターミナルで乗合カローラを 見つけることができた。
すでに日が落ちてから、車は雪の積もる難所サラン峠を登る。下りきって12時前、ようやく 着いたドライブインで仮眠。
●2003年3月28日
バーミヤン
アフガンで最も有名な観光名所といわれるバーミヤン。タリバーンに大仏は破壊されてしまったが、 遺跡規模は大きく、見応えがあった。
小さい方の大仏は高さ35m、大仏の背中の跡だけが輪郭として残っていた。そこから大きい方の 大仏までの距離はけっこうあり、大小無数の洞窟群がある。その大半に地元民が住み着いており、 子供達が駆け回っている。そんなのどかな風景だが、主要な道以外には地雷の危険があり、兵士の 護衛が付いた。その兵士たちに招かれ昼食を頂く。油で炒めただけの米(具は一切なし)、ナン、 そして水、という恐ろしく素朴なものだった。百%炭水化物、これで彼らは本当に戦えるのだろうか。
大きい方の大仏は高さ53m、こちらの方がガランドウ感が強い。さらにぐるっと脇から崖の上に 登ることもできた。そこにも遺跡と思われる洞穴がいくつかある。また、2−3世紀頃仏教が栄えたと いうバーミヤン盆地を一望のもとに見渡すことができた。
●2003年3月27日
カブール 〜 バーミヤン
アフガニスタンの朝は早い。4時起床で5時半発のバーミヤン行きハイエースに乗る。舗装路は はじめの1時間ほどだけで、そこから先はボコボコの小道に入る。川に橋がなく、そのまま浅瀬を 走っていくという箇所もしばしば。
山道。標高は徐々に上がり、遠くには白い山、川沿いには緑の草地と桃白色の杏の花が咲き乱れて とてもキレイ。一方で、たまに通過する集落は単色の土色で色彩がない。
さすがに疲れてきたころ、やっとバーミヤンに到着。半分廃墟のような、さびれた町だ。
●2003年3月26日
カブール
カブール観光の一日。まず旧王宮を訪れようとするが、地図と道が変わっていたり、封鎖されて いたりして行き着けず。諦めてチキンストリートへ。この通りはかって平和だった70年代、 この町がヒッピーの聖地と称されていたころ、旅人たちの集まる安宿街として賑わっていたらしい。 現在は絨毯屋や骨董品屋が多く軒を連ね、往時の繁栄の残り香をかろうじてかぐことができたような 気がする。
カブールの中心街のすぐ脇にそびえる茶色い丘、土壁の粗末な家の間をぬって登っていくと、 やがてテレビ塔に出て、カブール市街から雪をいだいた山並みまで、絶景が広がった。
丘を下る途中、英語を話すおばさんに話しかけられ、家に招待される。見かけは粗末な土壁の家でも 中はけっこうきれい。日本と同じく入口で靴を脱いで上がる習慣であり、じゅうたん敷きである。
カブール動物園へ。ひどくショボイという話を聞いていたが、クマやライオンといった大型獣も いて大勢の地元客で賑わっていた。それでも檻の半分は空っぽだった。
市街をさらに南へ。ムガール帝国創始者バーブルの墓を目指すが、その道すがらは内戦でボコボコに 破壊されまくった遺跡のような崩れた建物が林立していた。
●2003年3月25日
ジャララバード 〜 カブール
砂利道。埃っぽいバザールの向こうに白い山脈が見える。カブール行き中型バス。川に沿った草原 の眺め。戦車の残骸。地雷処理の作業をする人々。
そして、午後、カブールへ。ホテルはどこもべらぼうに高く、レストランの小部屋を間借りする。
さすが首都カブール、町は大きく高いビルもある。しかし色彩がない。地下道があったが、平和 だった70年代に造られた物だろうか。
街の中心部を流れるカブール川。川に沿ってバザールが広がり活気がある。路上の両替商も多く、 アフガン通貨のアフガニー(Af)を入手する。$100=5115Af。
褐色の丘に囲まれたカブール。褐色の斜面に褐色の家並み。静止した時間の中の風景のように 見えた。
●2003年3月24日
ペシャワール 〜 ジャララバード
いざアフガンへ。
パキスタンとアフガニスタンの国境地帯は、国道上以外は一切パキスタンの国内法が通用せず、 パターン人の部族の掟による自治が行われている。そんなわけで兵士の護衛をつけ、タクシーで 国境へ向かうことになる。
ハイバル峠という峠を越えると、その先にアフガニスタンの荒涼とした景色が見える。少し下った ところがトルハム国境。パキスタン出国。
そして、アフガン入国。写真をとってもよいかと尋ねたところ、それがきっかけでチャイを 飲んでけ、食事をしてけ、と誘われ、まだ入国手続きもしてないのに、国境警備隊(?)の人々と 昼食をとることになってしまった。後から考えると、このときの食事がアフガンで一番豪華で 美味しかったことになる。
ようやく入国手続きを簡単に済ませ、埃と風にすすけた中央アジア、アフガン世界突入。乗合の ハイエースでジャララバードへ。
●2003年3月23日
ペシャワール
昼間、ペシャワール博物館へ。ペシャワールはかってクシャナ朝の首都プルシャプラと呼ばれ、 ガンダーラ仏教文化の中心地だったところ。ヘレニズム文化の影響を受けた仏像などが盛りだくさん。 ブッダの生涯を物語り形式に表した彫刻画も多く、これまで巡った仏跡の復習になる。
宿にはさらに客が増え、アフガン情報の最終収集作業。
いよいよ明日出発だ。
●2003年3月22日
ペシャワール
ペシャワールからアフガン国境へ向かうハイバル峠の界隈は部族地区の自治領域になっている。 入境許可証が必要なのでその取得に行く。そのあと、旧市街のバザールへ。シャルワールやミースと いうパキ・アフガンの民族服を仕立てる(295ルピー)。
宿に戻ると、今日カブールから来たという日本人旅行者が来ている。超最新のアフガン情報。 町の治安は良く、狭い道も怖いことはない、との話にほっとする。
●2003年3月21日
ラワールピンディ → ペシャワール
「 US, UK invade Iraq 」バスターミナルで買った現地英字紙の見出し。
夕方4時ペシャワール着。内装まで超ド派手、赤や金ぴかの花や輪っかに飾られたギンギラバスで 新市街の宿へ。
宿はガラガラ、他に誰もいない。情勢のためか、泥棒宿との悪評のためか。情報ノートはそれなりに アフガン情報充実。台所があるので、今後に備えて自炊で野菜摂取。
●2003年3月20日
ラワールピンディ・イスラマバード
アメリカ、イラク攻撃を開始。衝撃の一報をインターネットで知る。予想に反して、ピンディも イスラマも町は静かで、ネットで見るまでは気付かなかった。夕方、路上の新聞屋にはバグダット 空爆の模様を載せた号外らしきウルドゥ語の新聞が並んでいた。去年の正月をあの歴史ある街で 迎えたのだった。その街が今、燃えている。
リエントリービザを受領し、アフガニスタンの地図を本屋で入手した。
●2003年3月19日
ラワールピンディ・ロータスフォート
イスラマバードにてリエントリーの申請を済ませ、その足でロータスフォートへ向かう。 ロータスフォートはスール朝の王が16世紀に建造した防御用の城砦で全周5キロと巨大。城門、 モスク、処刑場、宮殿跡などが残る。広すぎる城壁内には現在小さな村があり、人が住んでいる。 平原の景色が広がり、川の向こうに山並みが見える。ここは地勢的に、南のインド世界と北の中央 アジア世界の境界にあたり、遊牧民族の侵攻に備える意味があったという。パキスタン版万里の長城 といったところか。
●2003年3月18日
ラワールピンディ → イスラマバード
パキスタンへの再入国査証リエントリービザ取得のため、イスラマバードへ。アフガンから戻って くるために必要なのだが、この手続きがちと煩雑。まず内務省内の事務所へ行き申請書類を作成。 そのあとその書類を持って7キロ離れた別のパスポート事務所へ。しかも内務省の受付が11時と 遅く、パスポート事務所のほうの受付時間に間に合わなかった。明日また来いと言われる。 これだから、ムダにだだっ広いこの町は嫌いだ。
ピンディに戻り、バザールなどを見物。
●2003年3月17日
ラホール → ラワールピンディ
11時過ぎ、ゴッチンとラホール出発。たまたま乗ったバスが豪華冷房つき。高速道利用で快適 だったが、ラワールピンディ着は夕方5時。5ヶ月前インドビザ取得の際も利用した宿アルアザムは さらに日本人化が進み、日本語の本の書棚ができていた。
夕食は、少し遠方だが新疆(ウイグル)料理屋へ。前回パキスタン滞在での、強烈な下痢と体調不良 の洗礼をくらっていたときに大感激した味は健在だった。
●2003年3月16日
以下、自転車にのっていないので距離表示を省略します。
ラホール
アフガンから出てきたばかりというオーストラリア人と日本人のカップルに最新情報と手書き地図 などをもらう。昨日と今日とでチェックアウトの人が多く顔ぶれが随分変わった。
●2003年3月15日
ラホール(0.0km)
体調いまいちで熱っぽく感じるので、一日ごろごろしている。宿のテレビでCNNを見る。 イラク情勢が気になるところだ。
●2003年3月14日
ラホール(0.0km)
休日のため、街は静まりかえっている。昨日より店は閉まっており、何もできない。5ヶ月前にも 総選挙のときに同じような一日があった。夜、手打ちうどんを食した。
●2003年3月13日
ラホール(0.0km)
今日と明日の2日間はイスラム教シーア派のアーシュラと呼ばれる祭日。ムハンマドの孫にあたる エマーム・ホセインがウマイヤ家との戦いに破れ「殉死」したのを哀悼し、その痛みと苦しみを自らの 身体を傷つけるなどで追体験しようという行事。日本でも、怪我人の出るような激しい祭りはいくつか あるが、自虐祭と呼ばれるアーシュラで繰り広げられる光景は半端ではなかった。上半身裸の男たちが 刃のたくさん付いた鎖をむきだしの背中にひたすら打ちつける。当然背中は切り刻まれ、鮮血に染ま り、みみず腫れのようにもなっていて、救急車の手当てを受けている者もいる。また、小さな子供 たちもやっていて痛々しかった。すぐ間近、返り血を浴びるほどの距離で見た。
●2003年3月12日
アムリトサル → ラホール(62.7km)
9時過ぎアムリトサル着。勝手知った黄金寺院で朝食をいただき、国境へ。
見覚えのある草原・田園の景色、パキスタン再入国。酒を隠し持っていたので、税関ではちょっと 緊張。アラビア文字と女性の装いがイスラムを感じさせる。
10月19日以来のラホール。宿までの道を覚えていた。宿の経営者マリックも僕のことを覚えて いてくれた。トルコ人1人、韓国人1人以外20人以上みな日本人。
夕方、国境の閉門式を見に行く。アムリトサル側で前に見ているが、パキスタン側の方が「応接」 に俄然熱がこもっていて熱かった。実はこの2国、とっても仲良しではないかと思ってしまう。
●2003年3月11日
デリー(10.9km)
アフガニスタンビザついに取得! 待っている間に話しかけてきたおじさんはアフガン人 だった。
午後、民芸博物館へ。完全に暇つぶしのつもりだったが、良かった。トーテムポールのような 異形の木彫りの立像や色鮮やかな布地の数々、インド文化の奥の深さを見た。
さらに時間つぶしで映画を見て、夜になってラールキラー前より夜行バスに乗る。
●2003年3月10日
デリー(10.9km)
暇日3日目。日本領事館の図書室へ。また、パキスタンに密輸するつもりで酒を買う。
●2003年3月9日
デリー(0.0km)
去年はまだできていなかったデリーの地下鉄がついに一部開通したという話をきいていたので、 わざわざ乗りに行ってみた。既開通部分は地上の高架になっていて、きれいで立派。日曜日の せいだろうか、移動の目的でなく乗ること自体が目的だと思しきインド人観光客、家族連れで混ん でいた。構内に掲示されていた路線計画の説明を見て唖然とする。資金の16%がインド政庁、 同じく16%がデリー市政府、数%の端数があって、60%が日本政府からの借り入れ、 とあった。
●2003年3月8日
デリー(9.2km)
ビザ待ち暇つぶしの初日だ。国立博物館は期限切れの学生証を使って100ルピーから1ルピーへの 大値引きに成功。
宿では、これからパキスタンという日本人数人に会う。昨日会った学生たちとは違うグループだが、 ”同じにおい”を感じてしまう。
●2003年3月7日
パルワル先 → デリー(84.9km)
首都デリーに戻ってきた。10月30日以来だ。
今日は金曜、週末にかかってしまうので、宿街へ行くより先に大使館街へ行き、アフガニスタンビザ の申請手続き。人によって交付までの日数に差異が大きいようだ。はじめ、「17日」と言われ真っ白に なる。約束があるから困ると頼んだらわりとあっさり11日受領になった。
小さな再会が3回ある。カルカッタで会った日本人、バラナシで会った韓国人、そして向こうから 言われて気付いた、イランのイスファハンで会った日本人の学生。3月のインドは学生旅行の季節だ。 アグラでもそうだったけれど、ここでも周りの若さを感じてしまった。
●2003年3月6日
アグラ → パルワル先(157.7km)
アグラからデリー方面はさすが上質の舗装。路肩も充分で風はちょっと逆だけど、ぐんぐん進む。 道沿いのドライブインも立派な造りのところが多い。が、あえて、個人経営っぽい、少年が健気に 働いているような店を選んで休む。
●2003年3月5日
アグラ(13.6km)
休養日としての一日。タージ・マハルを色々な角度から眺めた一日。
自転車でヤムナー川の対岸へ行くと、川の水面をはさんで対面にどおんと白亜の大聖廟。なんとも 幻想的でイイ。
夕方、宿のみんなを連れて、昨日発見した「タージが裏から見える場所」へ、またまた行く。 黄昏どき、夕陽の落ちる方角とタージの位置が重なって浮かび上がる。
●2003年3月4日
フィロザバード先 → アグラ(42.1km)
この日も風強し。そしてアグラに着く。
アグラはアクバル大帝の建てたムガール帝国の首都の一つ。なんといっても、第五代皇帝 シャージャハーンによる妃のための墓、白亜のタージマハルが有名だ。
インド政府はそんな世界遺産をさしずめ「打ち出の小槌」だと思っているのだろう。250ルピーの 入場料に訳のわからない税金500ルピーを加え、750ルピー(2000円弱)という額を外国人旅行者に 対してのみ設定している。
これを払いたくないから、アグラ自体に来るかスキップするか迷っていたのだが、結果的には来て 良かった。タージマハルの横を歩いていくとヤムナード川のほとりに出る。そこで振り向くと、 巨大な白廟がすぐそこにそびえて見えた。カメラに収まらないほどの圧倒的な大きさで迫る威圧感を 見上げる。広くは知られていない場所なのか、ぼくの他に観光客はいなかった。
宿には日本人たくさん。インドに来て3日目とか、旅行全体で1ヶ月というような学生旅行者が 多い。そう、いつのまにか春休みの季節なのだ。1年9ヶ月旅していると言うと、当然のことながら 驚かれて、ぐっと老けた気分になる。
●2003年3月3日
サーンカーシャ → フィロザバード(136.8km)
昨日の夜7時頃になった、55人というスリランカ人の大団体がやってきたのだが、今朝早くから もう出かけていった。さすが信仰心の篤い国の人たちだ。
北北西の風強くアグラが遠い。
●2003年3月2日
カーンプル先 → サーンカーシャ(151.3km)
仏教八大聖地巡礼制覇完了。
残り推定40〜50キロのところで運良く英語を話すおじさんに会い、やっとマハンダバードと サーンカーシャの位置をほぼ推定できるようになった。サーンカーシャにはチャイ屋もないという 「歩き方」の記述は間違いで、スリランカ寺もあり泊まることもできた。お寺を構えているのは スリランカとミャンマーだけ。この2国は随分気を吐いていると思う。日本も仏教国では一番の 金持ちなのだから貯めこんでないでもう少しこういうところにも使うべきだろう。
1キロほど離れて、アショカ王の石柱とストゥーパ跡。サーンカーシャは、いったん天界に昇り 生みの母マヤ妃と再会したブッダが再び地上に降りてきたという伝説の地。予想通り遺跡はショボイ。 訪問客も少ないのだろう。逆に係員は歓迎してくれて、巡礼帳のノートを見せてくれた。日本・韓国・ 台湾ほか、インド各地の文字、ローマンアルファベットの書き込みもあった。
遺跡の丘の上から見渡す限り続く緑のかなたの地平線に、真っ赤な太陽が沈んだ。
●2003年3月1日
バラバンキ手前 → カーンプル先(166.3km)
走って走って走る。遠い、遠い、遠い。
これはもう意地だ。なんとしてもサーンカーシャを見つけてやろう。
カーンプルの手前で大河ガンジスを越える。これが見納めだ。