ふねしゅーの地球紀行
    2002年12月
               



●2002年12月23日〜2003年1月1日

バラナシ
12・24 列車は遅れてバラナシ着。カルカッタに比べてぐんと寒く、夏から突然冬になる。クリス       マスイヴということで宿でプレゼント交換会が企画されるが、風邪気味で熱っぽく少し           参加して寝る
      参加して寝る。
12・25 夕方出かけた以外は寝てすごす。夜ケーキがでる。
12・28 やっと晴れ間がのぞき、昼はやや暖かい。体調回復。
  12・29 初転法輪の地サールナートへ10人で連れだって行く。ここは仏教四大聖地の1つ。       バラナシの郊外で悟りを開いた後のブッダが始めてその真理を他人に向けて語ったとされ       る場所である。
12・31 大晦日。雨。寒過ぎ。屋内なのに毛布をかぶって年越し。
 1・ 1 2003年元旦。初日の出を見ようと皆でガンガー沿いに出るが、あいにく曇で見えず。


  ●2002年12月23日

カルカッタ
 カルカッタはマザーテレサが活動した場所であり、その神の愛の宣教会が今も賓者、病人、障害者 らに対する慈善活動をおこなっている。旅行者の短期ボランティア参加も可能で同じ宿の何人かと 連れだって、「死を待つ人の家」と呼ばれるその施設の1つを訪れる。
 男女別のベッドに50人ほど患者が並んで寝ている。交通事故の被害者などがろくな手当てもうけら れず、悪化した状態になって運ばれてくるような場合が多いらしい。食事の配膳、シーツなどの洗濯、 と作業は沢山あるが僕ら一見さんボランティアは要領が分からず、効率はよくない。中には数ヶ月ここ だけの目的でインドに来たという人もいる。午前中だけのごく短い時間だけだったが、その間にも白い 布にくるまれて運び出される人を2体見かけた。
 夕方カルカッタ駅へ。ここからバラナシ方面へ向かう列車は治安の悪さで有名。気を引き締める。


  、 ●2002年12月22日

カルカッタ
 午前中カーリー寺院へ行こうとするが、地下鉄が日曜日は午後からしか利用できないとのことで 、諦める。結局安宿街サダルストリートをぶらぶらし、夜、宿の屋上で宴会をして一日が終わった。


  、 ●2002年12月21日

カルカッタ
 早朝カルカッタに到着する。北に戻ってきたが思ったほど寒くない。まずバラナシ行きの列車の 予約に行くと予想外にあっさり取れた。ここの予約事務所で会った日本人と昼飯を食べ、そのまま カルカッタ公園を散歩する。だだっぴろくゴミ捨て場という感じでキレイではない。イギリスが建てた ヴィクトリア記念堂の周りは柵で囲われ整備され、上流階級の空間になっていた。


  、 ●2002年12月20日

チェンナイ〜カルカッタ
 2泊3日の汽車の旅。3段ベッド2等寝台の上段でひたすら寝て過ごす。


  、 ●2002年12月19日

〜チェンナイ・マハーバリプラム
 インドへ帰ってくる。コロンボ・チェンナイ間の飛行機はやけに立派でTVゲーム付きだった。
インド4大都市の一角チェンナイ(旧名マドラス)。見所はさしてないとはいえ、一泊はするつもり だった。ところがカルカッタ行きの列車の予約に行くと、明日、あさって共に一杯で今夜なら空いて いるという。
 急に丸一日のみの滞在となったため、チェンナイ市内の観光は捨て、郊外のマハーバリプラムを 訪れる。7世紀頃に栄えたというヒンドゥー遺跡で岩彫りの巨大彫刻群,砂浜に建てられた海岸寺院 が有名だ。
 ベンガル湾を眺めつつ、次に海に出会うのは太平洋、中国沿岸だ、と考える。


  、 ●2002年12月18日

コロンボ
 スリランカ滞在の最終日。昨日同様買い物と時間つぶしで博物館。国立博物館とオランダ時代博物館 を訪れる。前者は広くて充実。後者は閑散としていた。夜空港へ。人間はやたら多いが、店少なくて 。退屈。


  、 ●2002年12月17日

マータラ〜コロンボ
列車でコロンボに戻る。相変わらず天気は芳しくない。キャンディで 少し多めにお金をおろしすぎて いたため,サンダル、短パンなどちょうどダメになってきたものの買い物に充てる。


  、 ●2002年12月16日

マータラ
 スリランカ最南端のテウランダ岬と近くの寺院を訪れる。ウェウルヤンナラ寺院には 仏陀の生涯を表したという人形絵巻が並べられている。ライオンや悪魔の人形が仏陀に手を 合わせている図などがあって、おかしく感じた。
 岬近くの土産物屋で、日本語を話すおじさんに会う。日本で働いていたそうだ。、 景気が悪い、また日本に行きたいなどとさかんに話していた。


   ●2002年12月15日

ハプタレー 〜 マータラ
 今朝もまた濃霧。肌寒い高原から南海岸へ。ひどく揺れる山道を、バスを何度も 乗り継いでインド洋に出る。最南端にほど近いマータラという町へ。何軒かあたってみてから、 わりと感じのよい兄妹のやっている宿(250ルピー)を見つける


   ●2002年12月14日

キャンディ 〜 ハプタレー
 スリランカ中央部の高原地帯を列車で行く。暑さに弱いイギリス人の植民地時代に、 避暑地そして茶の農園地帯として開発されたところ。緑の山あい、深い谷に沿って、 ぐいぐいと登って行く。本当は、もう少し先のエッラという村までいくつもりだった。 列車の遅れ、曇って霧が深いこと、だからどのみち眺望が期待できないこと、 そして1つの出会いからハプタレーで下車することになる。
 出会ったのはピアノの調律師をしているという男。北部の町ジャフナ出身のタミル人で 内戦のため故郷を追われ、父や兄弟も仕事やその他の都合で散り々になり、 この閑村の家には今、母親だけが住んでいるようであった。小さな部屋には電子回路の キットやキーボード、ギターなどがあり、そもそもはかなり裕福な家だったことをうかがわせた。 彼らは自分たちを難民だといっていた。


   ●2002年12月13日

キャンディ
 午前中ペーラデニヤ植物園へ。熱帯種を中心に様々な木や花や草が集められていて、日立のCM「この木 何の木、、、」と同種の大ジャワビンローの木もある。でも植物に興味がないとさして感激もしない。
 夕方キャンディアンダンスと呼ばれる伝統芸能の踊りを観に行く。バク転の入ったものや、皿回し、 炎を口に含むといった踊りなど多彩で飽きなかった。


   ●2002年12月12日

キャンディ
 南インドからの侵略に押されたシンハラ王朝はアヌラーダプラ、ポロンナルク、その他いくつかの都 を転々とし、最終的にこの地キャンディに落ち着いた。キャンディには仏歯寺というお寺がある。4世 紀にスリランカにもたらされたという仏陀の左の犬歯が納められ仏教を信仰するシンハラ人の民族の象 徴になっている。逆にそれ故のことだろう、98年にはタミル過激派の爆弾テロを受け、寺院の屋根な ど今も修復が続いていた。
外国人200ルピーと掲示されているが、日本人=仏教徒=無料とみなされ、何も言われずタダで入 れる。内部は木材を多用しており日本の寺社に近い香りもするが、本殿の前に象牙のアーチが組まれて いて、そこはスリランカ風。仏歯寺のあと博物館や展望台を訪れるが、いずれもいまいち。夕方になっ て雨。宿に戻る。
 夕食をとりながらベルギー人と宿のおばちゃんと雑談。おばちゃんに日本人は英語が下手で困る、よ くそれで旅行ができるてなことを言われ、腹が立ったので反論。英語グローバリズムは嫌いだと強く 反論しつつも、中高6年間英語を勉強してきたと答えるのが恥ずかしいのもまた然り。

   ●2002年12月11日

ダンブッラ〜キャンディ
 古都キャンディへ。昼には着くが今日もまた雨。一軒目意外にも満室と言われ雨の中気が重くなるが、 次の宿で空いている。朝夕2食付きで400ルピー(500円強)とのこと。
 雨は降り続いているが街に出る。キャンディはスリランカ第2の都市だと思うのだが、そのわりには コロンボと比較にならぬほどぐっと小さい。後で調べると人口10万人程度。そしてかつてはタミル人 の多い北部の都市ジャルナが人口2位だったのが、長引く内戦の影響で流出し、キャンディが2位に繰り 上がったという経緯らしい。ともあれ30分あればざっと市街を一周できてしまう程度。インターネット で暇をつぶそうとしたが、日本語が使えないのでやめる。
 宿に戻る。暗くなってからもう一人の宿泊客ベルギー人が帰ってくる。宿のおばちゃんも話し好きだが、 話し相手がいるというのは退屈しなくていい。


   ●2002年12月10日

 ダンブッラ 〜 シーギリヤ
   働いていた頃、スリランカについて覚えていることが2つだけある。1つはお客様から「泊まっている ホテルでテロの爆発事件があって.....」と国際電話を受けたこと、もう1つはシーギリヤロックと いうのが代表的な見所であると教わったことだ。
   そのシーギリヤはジャングルの緑の中に突如ぬきっとそびえ立つ高さ200メートルの巨岩。垂直に そり立ったその崖の上に、5世紀末に築かれ、たった11年間だけ都とされた王宮の跡がある。
   懸念の天気は曇。ときおりパラつき、ときおり晴れ間の差すという微妙な空。1200段あるという 階段を登って頂きに至る。途中の中腹の洞穴にはシーギリヤの美女と呼ばれる壁画群があり立派。意外に 広い頂上の遺跡からは20km離れたダンブッラの黄金大仏がかすかに見えた。
   ダンブッラに戻ってもすることはないが、夕方日没後、大仏と仏塔が照らし出され、お経が大音量で 流される。お経は早朝も聞こえてきて、僕はイスラム圏のアザーンを連想した。アザーンはトルコでも パキスタンでもアラビア語だが、お経は一体? 南無阿弥陀仏も元はサンスクリット語だっけか?
   

   ●2002年12月9日

 ポロンナルワ 〜 ダンブッラ
   今日もまた灰色の浮かない空。バスに揺られてダンブッラへ。
   ダンブッラは石窟寺院で有名な町。バスから降りるといきなり目の前にどーんと金色の大仏が鎮座 していて驚いた。真っ白な仏塔もそびえていて、仏教国スリランカの宗教色を強烈に感じる。
   観光前に腹ごしらえと入った食堂で昨日ポロンナルワですれ違ったドイツ人のおじさんと会う。 まもなく例によって雨がざざーっと降り始め、身動きのとれなくなった僕らはしばらくそこで天気の 悪口など言いながら雨のあがるのを待つ。その間、食堂の小さな少女が歌を歌ってくれた(親に歌わさ せられた)のだが、「大きなたいこ、小さなたいこ....」と聴いたことのない歌詩だったが日本語の歌だった。 日本のお寺からの寄付があり、日本のお坊さんがこの町にも来ているらしい。
   4時、ようやく雨は上がり、ドイツ人のおじさんと岩山の上、洞窟の中に造られた仏教寺院を訪れる。 5つある石窟のうち1つはかなり広く、ずらーっと座禅仏が並び天井や壁面には色鮮やかな仏画が 描かれていた。
   麓の大仏はつい近年できたもので、世界一の大きさらしい。奈良や鎌倉の大仏より本当に大きいのか よく分からなかったが、もっと別のところに金を使えよと、少し意地悪くそう思った。
   

●2002年12月8日

 ポロンナルワ
   ポロンナルワの遺跡群は広範囲に点在しており、各々の保存状態もかなり良好だ。ブッダの歯を 祀っていた旧仏歯寺跡、仏塔やサンスクリット語の碑文や、立像・坐像・涅槃像の3体が並ぶ 石仏など。
   規模・見応えともハンピに比類するようにも思えるのだが、でも今一ハンピの感動に達し得ないのは、 岩山からの眺望といった立体的な風景がないためか。この日の午前中から散発的に降り注ぐ雨と 鉛色の空のせいか。
   どこを訪れるにせよ、天気が与える印象というものは大きい。スリランカがどうも今のところあまり 面白くないのは、雨のせいが大きい。それともうひとつ、旅行者が少なくて宿に戻っても話し相手が おらず、暇を持て余すということが挙げられる。ポロンナルワ旧市街はせいぜい200mくらいしか 店が並んでおらず、また旅行者が少ないせいか活気がない。でも、ハロー、コンニチワ、ジャパーンと 声をかけてくる輩だけはひたすら多い。
   

●2002年12月7日

 アヌラーダプラ 〜 ポロンナルワ
   昨日は昼過ぎまで晴れていたが、今日は朝から灰色の空。ポロンナルワへバス移動。座席は軟らかく 2列×2行でやけに立派だった。日本からの中古だったかもしれない。コロンボでは横浜市営バスや 桜美林大学バスを見かけた。
   ポロンナルワは10〜12世紀にかけて栄えたシンハラ仏教王朝の都。それまでアヌラーダプラに 都が置かれていたのが、南インドチョーラ朝の侵攻にあって、やむなく南へ遷都したのだ。
   午後、ポロンナルワの遺跡の一部を回る。当時の王が水確保のために造ったという巨大な貯水池 パラークラマ・サンドーラがあり、沐浴を楽しむ人が大勢いた。
   

●2002年12月6日

 アヌラーダプラ
   スリランカの中心部は文化三角地帯と呼ばれ、世界でも有数の遺跡群集積地帯だという。 アヌラーダプラはその三角形の北の頂点に位置している。前5世紀から10世紀にかけての長さに わたり栄えたスリランカ最古の王朝の首都であった。前3世紀には仏教を受容し、多くの寺院、仏塔、 菩提樹などが点在。5世紀には中国僧の法顕がこの地を訪れたという。宮殿跡などがあって遺跡然と したところもいくつかあったが、多くは修復改築が繰り返されている。大勢の観光客、というよりは 参拝客を集めていた。
   3時ごろ町に戻ってきた途端に大雨。雨宿りのときに、青森に住んでいたことのあるという日本語を 多少話す男に会う。その知人でイスラム教徒だという男がいて、今日はラマダン明けのお祝いの日 だからよかったら参加しないかと誘ってくれる。
   結局のところ、彼が小泥棒だったのか単なる行き違いだったのか分からないが、結果として僕は 349ルピー(450円ほど)を失うことになる。まず6人ほどで中華料理店に行き、アラックという 地酒を飲ませてもらう。やがて日が落ちて、彼のお兄さんが別の町から戻ってくるまでの間という 待ち時間で、また誰かがもってきた酒とホッパーという米粉の地元料理で小宴会になる。バケツや 板切れを楽器代わりに叩いて歌をうたう。完全に酔っ払いだ。その合間、手持ちのお金がなくなったから 兄が戻るまでの間貸して欲しいということで、僕はムスリム男の代わりに酒1本を買ったのだ。 小宴会のほとぼりがさめたころ、彼はすぐ戻ると言っていなくなり、青森にいた男とぼくは残される。 ほか何人かいた連中はてんでにいなくなったりまた現れたり。
   1時間半かそこら待たされ9時。雨は相変わらず降り続け、どうなっているか尋ねても青森県は 要領を得ず、それ以上450円のために待つのも嫌になって金返せだなんだとしばらく言い合って ケンカしたあと帰ることにした。もう一人いた男はムスリム男について、あいつは友達じゃない、 あいつは悪い奴だ、俺は知らんと言い逃れていたが、青森男はしゅんと落ち込んでいるようにも見えて、 後味が悪かった。
   

●2002年12月5日

 コロンボ 〜 アヌラーダプラ
   10時40分発の列車。1時間前には駅に着いて切符を買う。3等車の激混みを警戒して2等 (116ルピー、約150円)にしたが、空いていた。アヌラーダプラまで6時間余りの道のりで この値段。どのみちべらぼうに安い。
   昼間は晴れて蒸し暑い天気が、夕方アヌラーダプラに着く頃には曇りになって、宿探しの途中で 豪雨。もう少し探そうという気力は失せて、2軒目250ルピーのところに決めた。
   夕飯のカレー、水が悪いのか米がひどいのか、全体としてまずい。インドの方が選択肢も豊富で よかったように思ってしまう。
 

●2002年12月4日

 コロンボ
   事実上の首都コロンボは思った以上に都会。中心部のフォート地区は近代的に整然とした街並みで、 双子の超高層ビル、その名も世界貿易センタービルが、スリランカもやればできるんだぞといわん ばかりにそびえたっていた。
   名目上の首都、長い名前で有名なスリジャヤクルダナプラコッテは思った以上に田舎。コロンボの 中心から10キロ余のところに湖があり、その湖上に国会議事堂が浮かんでいる。周りはひたすら緑。 十年前の「歩き方」に「議事堂以外にさしたる建物もなく」と書いてあるが、変化なし。
   午後、日本大使館へ新聞を読みに行く。館内は冷房が効いていて外とは別世界。テレビでNHKを 流していたが、スリランカ時刻が4時になって「12月4日午後7時のニュースです」と国際生放送に 感激した。南アとオーストラリアでの皆既日食のニュースの途中で閉館のため追い出された。
   フォートに戻る途中で雨。傘を持っている地元の人が多いことから察するにきっといつも雨が降るの だろう。
 

●2002年12月3日

 トリヴァンドラム 〜 コロンボ
   飛行機は1時間以上遅れた。荷物検査は厳重で細かく、搭乗前に今一度、預けた荷物と持ち主の 照合をするという確認作業があった。筆入れに入れておいたハサミを取り上げられた。
   スリランカまでの所要時間はわずか1時間。東京ー札幌間より短く、さすがに機内食とは いかなかったが、ビールが出た。
   コロンボに着く。冷房の効いている空港ビルから外に出ると、もあっと蒸した暑い空気に包まれる。 ゴアやカニャークマリも昼間の陽射は真夏だったが、湿気は少なかった。コロンボの方がずっと蒸す。 日本の夏に似た不快さだ。
   そして夜、雷雨。カレーは口にも胃にも痛いほどの激辛。インドへ戻る日付は決まっているから、 長い長い旅行の中の小旅行という感じだが、なんとなく気の晴れない状態で始まった。
   

●2002年12月2日

 カニャークマリ 〜 トリヴァンドラム
   会社の先輩にインドオタクの女性がいて、しきりにカニャークマリを絶賛していたのを思い出す。 そうでなければインド最南端のこの町の名前を僕はもともと知らなかった筈と思う。実際に来て見ると、 日の出と日没のとき以外にはほとんどすることがない。それはインド人も同じらしく、日の出や 日の入りの時間帯に異様に込み合う砂浜も、少し時間がたつとガランと人気がなくなってしまう。
   同じ宿の彼女は大学三年の自主休講旅行だそうで、前からインドに来て見たかったのだと話していた。 僕はこれだけあちらこちら行っていてもインドは初めてである。学生の頃に来ていてもよかったのに、 なんで来ようと思わなかったのだろうと、ふと考えた。
   夕方、明日午前中の飛行機に備え、トリヴァンドラムへ移動する。明日搭乗するという実感があまり なく、でも船や列車に乗る前日にはありえない妙な緊張感を覚えていた。
   

●2002年12月1日

 カニャークマリ
 最南端2日目の朝日。同じ宿に泊まっていた日本人の女の子と見に行く。日曜日のためか、 昨日以上のものすごい人出。やや薄く雲がかかっていたが水平線の上にポコッと太陽が出現した。
 宿に戻ってまた寝る。午後、岬の東南に浮かぶヴィーウェカナンダ島へ。19世紀末の宗教改革者 というヴィーウェカナンダの巨大な立像が、日本よくある宗教法人の建てた真新しい観音様のような 感じで、そびえている。隣の島には小さな記念堂があり、木材を使った内部の造りは神社みたいだった。 同宿の彼女とここで会って、5時半の最終舟で本土に戻る。島には、季節ごとの日の出の方角を示す 日の出暦表が描かれていた。それによると、最も南から登るのが元旦前後のようだった。ただし、 舟の運行時間からして日の出も日の入りも島で見ることはできない。もし舟が運航されたとしたら、 きっと恐ろしい人数が押し寄せて島が沈むだろう。