ふねしゅーの地球紀行
    2002年11月
               



●2002年11月30日

 カニャークマリ
 朝6時前に起きて最南端のご来光を見に岬へ。今回の旅の中でも何度となく日の出を見たが、 ここまで人の出の多い日の出というのはなかった。砂浜に沿って岩場に沿って太陽を待つ人、人。人。
 カニャークマリは単なる地理的に特別な場所だという以外に、ヒンドゥー聖地としての性格をもつ。 大半はカメラをかかえたインド人観光客だが、人によっては未明の海に入り、東の空に向かって祈りを 捧げている。
   突然にわかに拍手がまき起こる。日の出だ。
   宿に戻って寝なおす。
 午後、処女神クマリを祀っているクマリ・アンマン寺院へ。薄暗く宗教的ものものしさを感じる 内部。男性は上半身裸にならないといけないという決まりがある。
 夕方、夕陽をみようと思ったが、あいにくの曇り空。
   

●2002年11月29日

 コーラム 〜 トリヴァンドラム 〜 カニャークマリ
 ケーララ州の州都トリヴァンドラム。ここからスリランカ行きの飛行機が出ている。船便の運航が 再開されたという噂の実体を最後まで追ってみた。値段も運航本数も、出港都市名についても、 確度の高い情報は得られず、結局、船は諦めた。
   復路はタミルナドゥ州中部のティルティラパッリに戻る便を希望したが、前後の数日をあたっても すべて満席。トリヴァンドラムに戻る便も満席。ようやく空いていたのが、タミルナドゥ北部の チェンナイ行きの便だった。12月3日トリヴァンドラム ーー コロンボ。12月19日、 コロンボ ーー チェンナイ。復路がチェンナイとなってしまった分やや高く7550ルピー (19000円など)、だいたい2日に一枚消費していた500ルピー札が一瞬で15枚も消えた。
   そして夕方、カニャークマリへ。インド最南端の町だ。
   

●2002年11月28日

 アラプッザ 〜 コーラム
 ケーララ州の南部は無数の水路が毛細血管のように入り組んだ水郷地帯で、 バックウォーターと呼ばれ、観光客用のクルーズ船が運航されている。 これに乗った(300ルピー、750円)。
 アラプッサからコーラムまで87km。椰子の木が生い茂り小舟を操る人々が素朴な暮らしを見せる 南国田舎の風景を、8時間余りゆっくりと楽しんだ。
   インド全体で観光客が減っているのだろうか。昨年の今の時期には毎日70人以上のクルーズ客が いたそうだが、今回は20人弱しかいない。インド人カップル2人を除くと、みな西洋人。その なかに一人、イギリス人の女の子がいて、彼女と仲良くなる。僕の旅行について話をしたあとに、 尋ねられた、「地球は大きいと思うか、それとも小さいと思うか」と。「大きすぎるくらいだ」と 答えた。彼女もそう思うと言い、様々な文化の違いをインドに来て感じた、僕を含めて 異文化の人々と交流をもつのは楽しいなどと、さかんに話す。なに言ってんだ、世界中を植民地にして ジャンクフードと英語文化一色に染めようとしたのはイギリス人じゃないか、という意地悪な指摘を したかったが、もちろん押し殺さざるを得なかった。英語がもう少し上手に話せたらなあと思いながら、 彼女の言うことに対してぼくはただ単純にうなずかざるを得なかった。
 

●2002年11月27日

 〜 コーチン 〜 アラプッザ
 再び海に出る。アラビア海に面した港町、工業都市でもあるコーチン。島や半島が入り組んだ地形で、列車は内陸部のエルナクラム地区に到着。そこからバスで半島のフォートコーチン地区へ。
 フォトコーチンには、この地で死んだヴァスコ・ダ・ガマゆかりの教会、隣接するマッタンチェリー地区にはポルトガルに次いでこの地区を支配したオランダ総督邸や、かって数多く住んでいたというユダヤ人の町ジュータウンが残されている。一方で、海沿いには、大がかりな仕掛け網のチャイニーズフィッシングネットが並んでいる。なぜチャイニーズという名前なのだろうと思ったら、かって中国の船がこの一帯を交易の拠点としてこの漁法を行ったのが由来らしい。その中国はやがてアラブ勢力に追われてしまった。その後に来たポルトガルがマカオとのつながりで再びこの漁法を持ち込んだのだという。かって世界で最も活発に国際的に開かれていた海と言われるインド洋の、長きにわたる盛衰の歴史をみる思いがした。
 帰りはエルナクラムへ船で戻り、バスに揺られてアラプッザとう小さな村へ。
 

●2002年11月26日

 バンガロール
 バスは思いのほか早く、まだ暗い5時半にバンガロールに着いた。7時過ぎに仮眠をとり駅へ。今夜の2等寝台の確保をしてから荷物を預ける。
 インドのシリコンバレーと呼ばれ、コンピューター産業が集積していることで知られているバンガロール。隣接した鉄道駅とバスターミナルが高架の歩道橋で結ばれている。それでも駅界隈はまだ雑然としていたが、4キロほど離れた繁華街MGロードまで来るとぐっと近代的。牛やサイクルリキシャはおらず、歩いている女性の洋装率は高い。エスカレータとエレベーターを備えたショッピングセンターがあり、エレベータの中で記念撮影をしているインド人がいた。そんな具合に街を見回していたら、突然、キレイに舗装され車も多く通る道の向こうから1頭の像がのっしのっしと歩いてきてびっくりした。
 

●2002年11月25日

 ハンピ 〜 ホスペット
 おととい昨日で、主だった観光はすんだことにして、今日一日はのんびりと過ごす。夜行でバンガロールに移動の予定なので、荷物は10時までにまとめておく。
 午前中は2階の廊下で隣室の日本人と喋ったり、開花の風景を眺めたりしながら過ごす。宿のおばさんや娘さん、隣の家のおばさんたちはひたすら洗濯をしたり、洗い物、掃除、小さな子供の世話で忙しそうだ。洗濯物はトタン屋根の上や積んである薪の上に干され、ゴミの散らかる土の上をパッパッと掃いて水をまき、その傍らでは子供が小さなお尻をプリンと出して用を足している。その間を犬や牛や豚がのんびりと餌を求めて歩きまわっている。日本も江戸時代の頃はこんな感じだったのだろうか、多分、などと話す。
 昼飯後、ヴィルパークシャ寺院を見学。入口で象が芸をしている。この寺は生きている寺で香がたかれ、参拝客が続いていた。昨日疑問だった人獅子のナラシムハがヴィシュマ身の化身であると知る。仏教の開祖ブッダもヴィシュマの化身の一つとされているのだ。
 夕方、バスでホスペットへ移動。久しぶりに列車を使いたかったのだが、駅行きのバスが来ず列車に間に合わず、仕方なくまた夜行バス。でもいつもと違い、2×2列でリクライニングもきく、ちょっと立派なバスだった(バンガロールまで160ルピー、400円弱)。
 

●2002年11月24日

 ハンピ
 朝の冷気がすがすがしいハンピ。しかし太陽が高度を上げるに従って熱帯の本領が発揮されてくる。
 今日は南へ。象の頭をもつガネーシャ像や、これまた立派なフリシュナ寺院、そして人獅子らしいのだがド根性ガエルのようにしか見えないひょうきんな顔をしたナラシムハ像というのがある。このナラシムハ像、いろんな寺院の壁面の柱に彫像としてみることができる。ヒンドゥー教の中ではどんな位置付けなのかよく分からないが、ヴィジャナガル王国の中ではわりと重要な存在だったらしい。
岩山に挟まれた隘路を抜け、城壁跡をすぎるとやや開けた空間に出る。王宮施設や兵站、浴場などの遺跡が点在している。広範囲に散らばる全体規模といい、一つ一つの迫力や保存状態の良さといい、また熱帯の気候風土の中の存在感はアンコールワットにすら匹敵するような気がした。最後に訪れた博物館にはハンピ全景の模型があり、岩山の多い地形と王宮、寺院群のつながりの位置関係が分かり易く示され、かっての王国の姿がぼんやりと浮かびあがっていた。
 

●2002年11月23日

 ハンピ
 14から16世紀にかけて南インド全域にかけて繁栄したヴィジャヤナガル王国。その首都が置かれていた場所がハンピ。今まで会った旅行者の中で、そもそも南インドを訪れたことのあった人は少なかったが、訪れた人は皆ことごとく「ハンピは良い」といっていた。朝、宿で会った日本人は、ハンピは2度目、インドでの滞在時間が余ったのでわざわざデリーから3日かけてきたと話していた。
 昨夜驚かされたヴィルパクシャ寺院前の道を反対方向、東に進むと、やがて褐色の岩山にぶち当たる。ふもとのほこらには聖牛ナンディの像がある。迂回して丘を越えると、眼下、深い緑の中に四角の壁に囲まれた規模の大きなアチュタラヤ寺院が忽然と姿を現わす。少し寄り道して手前のマタンガ山に登ると、岩山、蛇行する川、サトウキビ畑の緑、そして点在する遺跡群が一望でき見事。西の方角に目をやれば、ヴィルパクシャ寺院が当然のようにド迫力でそびえているのが見えた。さらに奥のヴィッタラ寺院まで足を運び、川沿いの散歩道を通って村に戻ってくる。
 村のヴィクパクシャ寺院の付近を歩いていると、絵葉書などを売る子供達がわんさとたかってくる。コンニチワと言ってきた後は英語を使い、それに加えてヒンディー語、そして母語のカルナダ語を使いこなすからすごい。カルナダ語の1,2,3を教えてもらうが、ヒンディーとは全く異なっていて驚いた。日本語のイチ、ニ、サンが中国語のイー、アル、サンに似ており、またヨーロッパ言語の数の呼称も互いに似ているから、インドの諸言語も数の呼び方はほぼ共通だろうと思っていたら全く異なっていた。ただ、せっかく教えてもらった数の呼び方も、夜になるとすっかり忘れてしまっていた。
 

●2002年11月22日

 ゴア 〜 ハンピ
 カラングートからパナジに出るバスが1時間ほどかかり、危うく9時半発ホスペット行きバスに乗り遅れそうになる。のっけから道は上り坂。ひどいつづら折の悪路は思わずエチオピアを思い出したほど。しばらくして高原に出て、夜、乗り継いだバスはハンビ村に着いた。
 ハンビの宿に荷をおろしたあと夕食をとりにぶらぶらと出歩く。土産物屋やレストランの並ぶ村唯一の表通りの正面に電飾に飾られた門が見える。ああ行き止まりなんだと思い、さらに少し歩き、ふと何気なく見上げて驚嘆する。何もない夜空だと思った正面の空間に、ひっそりと夜闇にまぎれて浮かぶ巨大な影があった。10階建てのビルほどはありそうなヒンドゥ寺院の塔門だった。
 初日の夜にして、ハンビを気に入ってしまった瞬間だった。
 

●2002年11月21日

 ゴア、カラングート
 州都パナジのやや内陸側にオールドゴアと呼ばれる地区がある。ポルトガルが最初に殖民を始めた地区で16世紀以来の古い教会群は世界遺産にも指定されている。
 小さいながらも年季の入った教会を想像していたら、予想を越えて巨大な教会が通りと広場を挟んでそびえたっていた。そのうちのひとつ、ボム・ジェズ教会にはかのフランシスコ・ザビエルの遺体が安置されている。ゴアを拠点として、マラッカ、マカオを経由し、日本にやってきていたわけである。パナジの南にはその名もバスコダガマ市という名前の市があるが、南アのモッセルベイで彼の銅像を見たことを思い出す。日本は植民地化されず、ザビエル市などという市もできず、よかったなあといまさらながら思った次第である。
 ビーチに戻る。サリー姿のまま海に入る女性がいたり、砂浜に寝そべっている牛を見て、かろうじてここがインドであったのだと分かる。
 

●2002年11月20日

 ゴア、カラングート
 16世紀以来ポルトガルの植民地支配下にあったゴア州。州都パナジを中心にいくつものビーチが存在しているが、そのうちのひとつカラングートへ。早朝のバスの中、英語の曲が大音量で流れ、椰子の木が茂る田園地帯の中にポツポツと教会の十字架が見える。通り過ぎる看板の文字はほとんどアルファベット。陽射も強く、合計20時間近くのバス旅の末、違う国にやってきたかのような気がした。
 観光地としてのゴアはヒッピー文化の栄えた地として有名だが、その中心地アンジュナビーチは思ったより人が少なく活気にも欠けていた。波打ち際の果てしなく続くカラングートの方がずっと賑やいていた。
 

●2002年11月19日

 アウランガバード 〜 プネー
 エローラがかなり良かったため、100キロ離れたアジャンタによっぽど引き返そうかと後ろ髪を引かれる思いを感じながら、次の目的地、ぐーっと南へ下がってゴアへ向かう。ゴアには行こうか行くまいかと随分迷った。内陸の遺跡系ばかりが続いていたので、気分を変える意味からも海に出ることにした。
 

 ●2002年11月18日

 アジャンタ・エローラ 〜 アウランガバード
 今日はアジャンタ、明日エローラを観ようと考えていたのだが、アジャンタに着いてから初めて月曜日の今日は観覧が休みだと知った。石窟寺院の入口に宿があるので、そこに泊まって明日観ることにしようと次に考えたが、なんと宿も月曜は休み。
 アジャンタの石窟寺院はヘアピン状に曲がった川の角の崖に沿って開窟寺院群で保存状態の良い壁画が見ものだといわれている。寺院の全景は川の対岸や丘の上などから一望できる。数キロ離れた村で宿をとって明日戻ってくるのも面倒臭く、移動することにした。ちなみに、休業日のアジャンタでは何十人もの地元の人々がたらたらと補修作業にいそしんでいた。
 昨日からひたすらバスに乗りっぱなしでエローラへ。アジャンタより少し時代の下がったエローラの石窟寺院は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3大宗教の寺院がズラズラーッと合計30余り並んでいる。岩の中はまるで迷路のようでその中に仏像が何体も整列していて見応えは充分。一番の見所、戦艦のように巨大なカイラサナータ寺院以外は無料である。しかし、カイラサナータ寺院は岩山を回りこむと上から鳥瞰することができた。ぼくと同じように、25倍もの外国人料金を払いたくない西洋人何人かが岩山に登り、緑の野の中に沈み行く夕陽と巨艦寺院を眺めていた。
 日没の前に訪れたジャイナ教寺院で日本のテレビクルーに遭遇した。TBSの「世界遺産」のクルーらしかった。
 

 ●2002年11月17日

 ボパール〜サーンチ〜インドール
 アショーカ王の建立した仏塔ストゥーパが残されている仏跡サーンチ。ストゥーパとはもともと仏陀の遺骨を納め崇拝の対象としていたもので、やがて仏教信仰の象徴となり、しいてはその形を変え、[卒塔婆」として日本にも伝えられてきている。
 本場インドのストゥーパは半球形の小山のようにずっしりとしていて、四方を鳥居のような門で囲まれていた。スリランカかららしき団体が大勢参拝していた。
 ここからアジャンターエローラ方面へ夜行列車で向かうつもりだったが、デリーから来るその列車が事故に遭ったとの情報を受ける。考えようによっては事故に遭うところだったわけで運が良かったのだが、この時は面倒臭いなとしか思えず、列車を諦め、ボパールからインドール、そこからジャルガオンと、何度もバスを乗り継ぐことになった。
 



   ●2002年11月16日

 カジュラホ〜 
 カジュラホはエロテックな男女交合(ミトゥナ)像で有名な村。そのミトゥナ像で飾り立てられた10−11世紀のチャンデーラ王朝時代の寺院建築が残されている。大半は腰をくねらせている程度だが、一部発禁物の彫刻もあった。多くの寺院が後に侵入してきたイスラム勢力によって破壊されたのももっともという感じ。
 少し離れたところにはジャイナ教の寺院群。ジャイナ教といえば無所有の究極、素っ裸の空衣装の人々がいるというが、直立したギリシャのダビデ像のような立像が中央に置かれ、仏像とはまた全然違った雰囲気を放っていた。
 

●2002年11月15日

 サトナー〜カジュラホ 
 朝サトナー駅で列車から解放され、バスに乗り換えてカジュラホへ。アイルランド人と中国系マレーシア人と一緒になる。
 午後宿に着くが、観光は明日にして散歩。日本語片言、英語片言の少年がついてくる。政情不安定(対パキスタン?)で観光客が少ないらしく、土産物屋の中には店を閉めているところも多かった。
 

●2002年11月14日

 バラナシ(0km )
 駅と郵便局へ。駅へは3人でサイクルリキシャで行ったが、客の重量約200キロ。試しに運転手と代わってもらってこいでみたが、正直思いっきりよろけた。若者はともかくおじいちゃんが細い脚でこのリキシャをやっているのはすごい。
 夕食後駅へ。昼間寝台は満席と言われていたので、自由車の二等座席。ムンバイ・バラナシ間の悪夢・・殺人的混雑が思い出されげんなりする。
 

●2002年11月13日

 バラナシ(0km )
 特に何もせず。雑談をしたり、読書をしたりして一日が過ぎていく。言いたくないが、昼間から煙を吹かしている連中が多くてすさんだ雰囲気。夜はまた元HISの今井くんとこんなクレームがあった、こんな問題発生があったと、過去を懐しんだ 。
 

●2002年11月12日

 バラナシ(2.4km )
 午後自転車の修理に行く。エンコしている車があり、道はぎゅう詰まりで車が一番遅く、歩行者が一番速い。ついでにタイヤとチューブを買うが、この2つが合わせて130ルピーに対して修理代は10ルピー。すぐ直った。
 宿は夕食付きで給食のように皆で食べるが、その時話していて一人HISに勤めていたという人がいた。働いていた時期、支店とも違うが共通の知人もいて世の中の狭さを思う。辞めてから2年が経ち、かなり忘れていると思っていたが、記憶の底に沈んでいて思い出した事柄はとても多く、懐かしかった 。
 

●2002年11月11日

 〜バラナシ(0km )
 混雑がやや緩和されてくると、インド人との戦いが始まる。基本的にはいい人と思えるが、したたかで悪く言うと自分勝手な彼ら。向こうが席を立って、その間に座っていると怒り、こっちが席を立って戻ってくると寝転がってどこうとしない。イランやパキスタンだったら真っ先に外国人である僕らに席を確保してくれそうな気がする・・・・などを自転車を壊されて以来、インド人嫌いがにわかに進んでいる。
 そんなこんなでバラナシへ。ここはヒンドゥ教の一大聖地、ガンガーの町だが、かつて麻原ショウコウや長渕剛が泊まったこともあるという伝説の日本人宿久美子ハウスへ。
 

●2002年11月10日

 ムンバイ(0km )
 ここから南へ至る道は日本に至る道ではなく、自転車に乗る気が薄れてきたところに故障。そして会った日本人2人はここからバラナシの夜行に乗ると言う。久しぶりにチャリを離れて旅行するのもいいかもしれない。そう思った僕は予定を変えた。
 丁度よくというか悪くというか小雨のムンバイ。そこを発つバラナシ行列車は予定変更を悔やみたくなるほどの殺人的混雑。乗る前からホームは大荷物のインド人でごった返し、整列という言葉を知らない彼らに対して、警官たちがやりたい放題に棒を振り回し、怒号をあげている。いざ列車が来てからも大変で、座席,棚、通路すべてぎゅう詰め。座席が二段式(本来は荷棚なのかも)になっていて、上にも人がいるから立体的に混んでいる。大半が男だが、小さい子を連れた家族や押されて泣きそうなオバちゃんもいる。
 どうにか乗り込み、この状態での27時間に絶望していると、この中を「チャイ、チャイ」と物売りがやって来る。日本の満員電車の中にやって来るのに等しい。しかも飲食物だけではなく、オモチャの腕時計や鉄砲売り、そしてコブラ使いの笛吹きまで来た。
 

●2002年11月9日

 ムンバイ(0km )
 日本で生活していても周期的にいやな事件は起こり、旅をしていてもそれは同じ。列車に載せていた自転車のギア取り付け部を多分そんなことは何も考慮しないインド人が座ったのだろう、見事までにぐにゃりと曲げられてしまった。手持ちのペンチじゃ直らず、意気消沈。
 やる気のないまま宿(サルベーションアーミー)へ。東京やニューヨークよりも賃貸料が高いといわれる商都ムンバイは宿代も高く、唯一手がでるのがここ。朝付きで135ルピー(350円ほど)。ゴアから来たと言う日本人2人と会う。片方の体調が悪いらしく、マクドナルドへ行きたいという。僕個人としてはいつ以来のマックだろう。金持ち階級が集まる店内でやはりビーフはなかった。
 午後エレファンタ島というヒンドゥー教の寺院を観に行くが、これは少し後悔。世界遺産なのだがそのためあってか250ルピーの外国人料金が課せられ、そのわりには小規模。ヒンドゥー教の寺はシヴァ神の男根を祀っているところが多いが、そればかりで一緒に行ったディー君とエレファンタ島じゃなくてチンポコ島じゃないかと文句を言い合った。
 

●2002年11月8日

 シャムラジ先 → アーメダバード(127.9km)
 昨夜は牛乳販売会社みたいなところに泊めてもらい、早朝に起こされ 
 そこからの道の途中、マウントアーブーという聖地に向かうのだというインド人サイクリスト5人ほどの集団に会う。そしてアーメダバード市へ。乾燥気候への備えという階段井戸を見に行く。百段くらいの長い階段を地下へ地下へと降りていく。壁や柱にはヒンドゥーの神々の彫像などが飾られ、ドラゴンクェストのダンジョンといった雰囲気。
 アーメダバードから先、ずっとヤーニャクマリまで走るつもりでいたが、もしそうすると日程的にきつくなること、そのあと北インド、ネパールでとれる時間がなくなってしまうこと、自転車で走り続けるのもいささか疲れてきたこともあり、輪行することにする。バスか列車か、アウラングバードかムンバイか迷ったが、アウラングバード直行バスはすでに出たあとだったため、ムンバイへ列車で行くことにする。
 

●2002年11月7日

 ウダイプル → シャムラジ先(152.4km)
 夕方、ラジャスタンからグジャラート州へ。インドでは州が違えば言葉も違うといわれるが、言葉が変わると文字が変わるのがインド。角張って横につながったヒンディー文字デーヴァナーガリーから1文字ずつが分離したグジャラート文字になる。
 考えてみると、多言語国家というのはざらにあるけれど、多文字国家というのは珍しい。中国では、全く別言語のような方言があまたあるというけれど、漢字は共通だ。南アフリカには11の共通語があるけれど、白人系黒人系の言語を問わず、ローマ字アルファベット。十何種類もの文字が混在しているのはインドだけだろう。
 文字や言葉はその民族の文化の中核に位置するものだから、それを失った民族は悲惨だし、保持しているのなら大事に守り続けるべきものだろう。
 

●2002年11月6日

 ナスドワラ → ウダイプル(53.5km)
 朝方はけっこう寒い。勾配のけっこうきつい坂、そして峠を越えてウダイプルへ。
 湖のある町ウダイプルはジャイプルなどと同じように、地方領主が治めていた土地だったが、他とは違いムガール帝国にもイギリスにも支配されずに独立を保ったとして、地元の人々の誇りになっているらしい。マハラジャでなく、マハーラーナ(武王)と称される王の宮殿が湖畔に建つ。独立の誇りからなのか、インド人も外国人も一律同じの入場料50ルピーだった。 
 

●2002年11月5日

 ビム手前 → ナスドワラ(122.1km)
 産地なのか、大理石を売る石屋が果てしなく続く道を越える。 
 ナスドワラという町では警察署に泊めてもらう。門前町。たまたま祭りの夜だったせいなのかどうかよく分からなかったが、町の建物に電飾が飾られ賑やか。 
 

●2002年11月4日

 プシュカル → ビム手前(125.7km)
 ブシュカルを出て猿の多い山道を越えると、聖者廟のあるイスラムの町アジメール。そこから再び国道。上りと下りが交互に続く。走っていると子供達が ワーワーと手をふっている。 
 

●2002年11月3日

 キシャンガール手前 → プシュカル(52.9km)
 国道からわずかにはずれ、ヒンドゥの聖地プシュカルへ。幹線をはずれた田舎は交通量もぐっと減ってのんびりしていい。
 プシュカルは小さな村なのに観光客はとても多く土産物屋が軒を連ね、日本語で声をかけられることもあり、そしてヘブライ文字の看板がやたらある。にもかかわらず落ち着いた雰囲気を感じたのは、オートリキシャ、サイクルリキシャの類がないからであることに気付いた。
 湖を囲みガート(沐浴場)がぐるりとあって、白い建物や寺院が並ぶ。この村の中心となる寺院はブラフマー(梵天)神。青い柱や赤い塔など色彩はやたら派手だが、奥に本尊があって賽銭箱が前にあるというような造りは日本の寺に通じているという気がした。 
 

●2002年11月2日

 ジャイプル→キシャンガール手前(104.1km)
 今までずっと西から東に向かってきたが、デリーから南へと進路が変わった。これがどうもやる気がしない。この道が日本につながっていないのかと思うとヤル気がしない。
 ジャイプール手前の広い道から、対面通行の狭い道。景色もぐっと荒涼としてきた。
 

●2002年11月1日

 ジャイプル(0km)
 むかしこの地方を治めていた藩王マハラジャが赤い色が好きだったため、旧市街のあらゆる建物が同色に塗られ、ピンクシティの異名をとるジャイプル。ピンクというと華やかな感じがするが、くすんだ色で雑然と喧騒の中にあっては、むしろブラウン・シティといった印象だった。
 旧市街の見所、風の宮殿とジャンタルマンタルと呼ばれる天文台を見た後、郊外の山の上のアルベール城へ。ピンクシティに合わせてか赤い制服を着た修学旅行っぽい一団が百人以上の大人数で。やたらにうるさかった。