ふねしゅーの地球紀行
    2002年9月
               



●2002年9月30日

    サッカル → ウバウロ(123.9km)
 約1.5kmの長さの水門を渡り、インダス川の対岸へ。そこから十数kmでカラチ、ラホールーペシャワールをつなぐ片側2車線の高速道に出た。ところどころ工事中で対面交通になる箇所もあったが、混みあう町の中心部はバイパスで迂回、ひたすら田園地帯を行く楽チンな、でも単調退屈な道が続く。
 インダス流域に来て以来、水の味が良くなった。バロスチタンの水はたびたび妙な味がしていた。水が豊富ということは重要なことである。
 

  ●2002年9月29日

    サッカル(0km)
 サッカルはインダス川に面して開けた町で、川をせき止める巨大な水門がある。インダス川の支流やら、そこから引かれた運河、用水路の類はいくらでも見たが、大河インダスの本流は今日になって初めて拝んだ。海のような広さはない。対岸の緑や街並みが見える。高台の塔からの眺望は素敵だが、近づいてみると、リキシャや馬車の喧騒と、動物の糞尿とゴミの異臭で汚されている。現実はそんなものだ。
 磨り減って布地が見えてきた後輪のタイヤを交換。パキスタン製130Rs(260円)。
 

  ●2002年9月28日

    サッカル・モエンジョダロ(0km)
 サッカルの宿からバスターミナルまでスズキと呼ばれる軽トラ改造の集合車、サッカルから約百km離れたラルカナまでバス、ラルカナ市内別のバス乗り場まで三輪のオートリキシャ、そこからドクリ行きのバスに乗り、途中の三叉路で別のバスに乗り換え、いくつもの乗り物を何度も乗り換えてモエンジョダロに到着した。
 知名度抜群の大遺跡である筈だが、パキスタン観光客がちらほらいるだけで閑散。9月でも酷暑であるせいなのか、それともやはり度々旅行者が強盗に殺されているという治安の悪さのためだろうか。セキュリティと称しておじさんがついてきたが、どう見ても丸腰のうえ暑さにバテていていざというとき役に立つのか甚だ疑問であった。
 ラルカナ市内移動のオートリキシャ、インテリ風の英語を話す男が案内してくれたが、コーヒーを飲もう、冷たいジュースをおごってやる、といささか怪しげだった。
 数千年前のものとは思えぬほどちゃんと残っているレンガ造りの井戸や上下水道の水路。インダス文明とは関係がないが、中心の丘には、クシャン朝時代の仏塔が残り、この旅で出会う初の仏教関連史跡となった。
 

     ●2002年9月27日

    デラ・ムラッド・ジャマリ→サッカル(129.5km)
 イラン以来の長かった砂漠地帯は昨日で終わりだった。今日はずっと緑豊かな田園地帯。水路が多く、田園が広がり子供達と水牛が一緒になって泳いでいる。
 昨日の列車事故に続き、今日はトラックとバイクの衝突現場を見た。今度は瞬間を見たわけではないが、丁度警察が来て、[処理」をしているところだった。日本の交通事故死亡者は年間一万人というが、人口同規模で運転が数倍荒く、道も車もボロいパキスタンではどうなのだろう。
 夕方日も落ちようかという頃、やっとインダス川の要塞の町サッカルに到着。
 

       ●2002年9月26日

    シービー先→デラ・ムラッド・ジャマリ(103.2km)
 昨日戻された道を再び走る。が、このことが思わぬ’目撃’をもたらした。午前9時過ぎ、百メートルほど離れたところを並行している線路の向こうから客車を引き連れた列車が近づいてくる。いいなあ鉄道は、などと羨ましげに眺めていたその時、不意に中程に連結された客車の数両が傾き、そして視界から消えうせた。脱線だとおぼろげに理解しつつなお見つめていると、列車は完全に横転し、砂埃が猛烈に立ち昇り、しばらく何も見えなくなる。機関車と二両目の客車だけが惨事から切り離されて、煙の中から走り出てきた。やがて砂煙が晴れ、事故の全貌が見えてきた。どうやら小さな鉄橋を渡る際に、その部分が崩壊したらしく、列車が落ちたらしい。何十人もの乗客が出てきていて騒然としている。死者もでているだろうと思いつつ、その場から離れた。


  ●2002年9月25日

    ゴコルド→シービー先(88.2km)
 ひたすら何もない砂漠の直線一本道。つまらない上に、体調再び悪化。夕方6時過ぎそろそろ次の集落に着くだろうと思って走っていたが、一向に着かず。しかも砂煙で視界もない。木々が少し植わった水無し川の橋の下にて野宿を図る。ところが多分誰かのタレコミなのだろうが、数時間後寝ているときに警察がやって来て、起こされる。さんざん当り散らし、日本語で暴言を吐きまくりながら、英語は全く通じず、連行。来た道を10km余り戻されて、モスク併設の詰め所のような所での泊となる 。


  ●2002年9月24日

    クエッタ→ゴコルド(110.9km)
 疲労感、倦怠感がそこそこ収まったので出発。南下するか、南方にあるモエンジョダロは列車かバスで行き東へ向かうか迷っていたが、南に向かうことにした 。
 40kmほどでこちらからだとごく短い上り坂の峠、そこから先延々と長い下り坂が始まる。涸れ川と鉄道の線路と何度も交差しながら、山あいの道を下っていく。イランから続いた高原地帯からついにインダス川流域の低地へと下っていくのだ。
 やがて視界が広がり、荒れ果てた世界、空気が鈍く暑く、向かい風がきつい。


       ●2002年9月23日

    クエッタ(0km)
 土地柄クエッタはアフガニスタン系が多く、カンダハルバザールはアフガニスタンの雰囲気で溢れているらしい。が、体調が悪いので面倒で行く気がせず。街角をド派手なバスやオートリキシャと呼ばれる三輪タクシー、それに馬車や自転車がひっきりなしに行き交い、クラクションは鳴り止まず騒がしいことしきり。そこらじゅうに食べ物や日用品の露店が並び、物乞いは多く、ゴミだらけのドブ川は異臭を放つ。体力のある時の途上国は楽しいが、そうでない時は辛いものがある。イランはその点きれいで整っていたなと思うとともに、イラン人がパキスタンやアフガニスタンを卑下しているのが、いいことではないがすこし解るような気がした。


       ●2002年9月22日

    カラチ分岐→クエッタ(30.8km)
 バロチスタンの州都クエッタに10時到着。さすがに州都になると市域に入ってから中心部までが遠い。昼食と夕方少し出歩いた他は、体調が良くないのでずっと宿で寝ている。夕方出たとき、閉まっている店が多く、今日が日曜日であることに気付く。イランは金曜が休日だが、パキスタンは現在西洋式に日曜休みになっているらしい。


     ●2002年9月21日

    ヌシキ→カラチ分岐(101.9km)
 どこかで飲んだ水にでも当たったらしく、体調を崩す。今日中にはクエッタに到着の計算だったが、途中の休憩時間どうしても長く必要で、最後の峠を前に諦める。泊めてもらったガソリンスタンドでは夕食を勧めてくれそうだったが断り、その辺で売っていたスイカを食べた。ナンなんて食いたくない。
 アフガニスタンの国境付近のせいかUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の車やアフガン難民キャンプの表示を見かけた。


    ●2002年9月20日

    パダッグ→ヌシキ(122.4km)
 まったくの砂漠地帯から今日は小刻みな丘の続く農村地帯へと風景が変化する。畑が広がり、ラクダや羊の放牧がされ、ところどころ用水路すら引かれている。通学帰りの子供達が中国製自転車鳳凰号に乗って並走してくる。さかんにペンをくれと言ってくるのが少し騒がしい。ともあれ緑のある風景というのは走っていて楽だ。
 ヌキシの町をすぎ峠越え。急斜面の坂ではエンコして止まっているトラックがあるが、運転手のオヤジは呑気に寝転がっていた。
 

  ●2002年9月19日

    タールゥ→パダッグ(125.6km)
 日の出を拝み、まだ涼しい朝の出発。20km行ったダルバンディンの町で食糧を調達。昨夕追い抜いていった西洋人の車と再会。EUのナンバーだと思っていたらイギリス人だとのことだった。
 ダルバンディンを出てまもなく道がまた悪くなる。大型車はすり違えない狭さだ。道は南へふれ山が近くなる。緑もちらほら見え、集落も出てくる。噂によるとこの近くの山でパキスタンの核実験が行われているらしい。
 パダッグの村にて泊。空手を見せてくれだとかなんやかやウルサイ連中が群がってくる。パキスタンは英語が通じるという話は都市と観光地だけでさっぱりだ

  ●2002年9月18日

    ノックンディ→タールゥ(157.3km)
 朝からずーっと単調な砂漠の道。新しい広い道で走り易い。午前中横風がきつかったが、午後から追い風になる。ヤクマチの町で水、ナン、リンゴなど補給し、さらに追い風にのって進み、小さな集落へ 。
 道路があり、モスクがあり、線路を挟んでその向こう側に集落。小さな広場の中心に井戸があり、色彩豊かな服装の女性たちが水を汲んでいる。ここで泊まれるかを尋ねに行くと、たちまち広場にいたほとんど全員の男たちや子供たちに二重、三重に囲まれた。動物園のパンダ並みの注目度はエチオピア以来だ。
 一人英語が少しできる人がいて、食事をとろうとすると、それを否定しナンとカレーを持ってこさせて、ご馳走してくれた。電線はすぐそばの線路に並行して走っていたが、村に電気はなく、日が落ちると真っ暗になった。


     ●2002年9月17日

    クイ・タフタン→ノックンディ(132.7km)
 パキスタン走行の初日は灰色の砂漠の中。舗装はでこぼこし、道は狭く、イランの道は快適だったと早くも懐かしい。15km前後に一回検問か一軒茶屋みたいな家があり、休憩できる。みなシャワールカミース姿、ターバンやカフィーヤを巻いている者も多いが、全員男。タフタンから女性の姿を見ていない夕方、ふと影の色が薄いのに気付く。雲が出たわけではなく、背後を見ると太陽が白く砂のもやの中にかすんでいた。
 そしてノックンディー着。粗末な建物が並び、向こうのほうでサッカーに興じている子供たちの姿に少しほっとする。ガソリンスタンドにて泊。ここの兄ちゃん、多少の英語ができるほか、中国語の数字も知っていた。隣国が中国だからだろうか。ラジオのニュースに聴き入ったり、僕の持っていたインド編歩き方を熟視していたりと、世の中のことに色々と興味があるらしかった。


    ●2002年9月16日

   ザヘダン → クイ・タフタン(103.1km)
 ひと月以上走り続けたイランとついにお別れ。風もなく下り坂基調で、2時ごろには国境へ。その手前、後ろを振り向くと距離標識に、ザヘダン、テヘランそしてバザルカン国境(トルコとの国境)が表示されていて、自分自身の越えて来た道のりの長さを感じた。
 難民キャンプのようと形容されていたパキスタン側の村タフタン。村の位置を移動したのか、取り壊し中の建物が目立ち、なおさら余計に廃墟然として見えた。夕方から風も強さを増し砂埃をもうもうと巻き上げる。宿はどうにか値切って150Rp(約300円)とけっこう高いくせに、水は出ないし、電気も自家発電で夜のみ。それなりにキレイな街並みだったイランとの格差が大きい。なんとなく、スーダンに入国した時の気分を思い出した。


  ●2002年9月15日

   ザヘダン(0.0km)
 5月の印パ緊張以来、アジアを横断する旅人たちにとって最大の問題となった印パ互いの大使召還。つまり大使館が休業状態となり、パキスタンでのインドビザ(およびその逆)がとれなくなってしまっていた。イスタンブールやテヘランで取るのは時期的に早すぎ、ここザヘダンにインド領事館があるようなので、ここであたってみようと考えていた。
 実際、朝いちでインド領事館まで行き領事らしき人と面談までしたが、結局ザヘダンでの申請はしないこととした。バムで初めて、イスラマバードでインドビザが取れるようになったらしいと聞き、領事の人も、「取得には4日か5日かかる。もし待つのが大変ならイスラマバードで取れる」と言ったからだ。
 密入国者が後をたたず、麻薬中毒者が多いというザヘダン。それ程の雰囲気の悪さは感じなかったが約1週間もいる気にはなれず、明日パキスタンに入ることを決めた。
 夜、警察が部屋に見回りに来た。やはり密入国者でも取り締まっているのだろうか。


  ●2002年9月14日

   ノスラット・アバード → ザヘダン(107.0km)
 砂漠地帯で意外だったのは蝿の多いこと。どこからわいてくるのかとにかく沢山いて、走っている間まわりをブンブンとうるさい。さらに意外だったのはトンポ。こちらはたまにしか見なかったが、蝿を捕食しているのだろうか、妙なところで秋を感じてしまった。
 峠を2つばかり越え、イラン東の最果て、バロチスタン州の州都ザヘダンへ。砂っぽくて雑然混沌とした雰囲気で、やはりバム以西の町とは明らかに違う。一歩早く国境を越えたかのような錯覚があった。


  ●2002年9月13日

   シュルガツ先 → ノスラット・アバード(105.5km)
 砂漠越え2日目。思ったより楽で逆に拍子抜け。楽だったのは給水が簡単だったため。トラック運転手用と思われる屋根のみの礼拝所に水があり、また水の湧いている小さなオアシス集落もある。
 午後から峠道。峠があるのは知っていたが、かなり延々と長い上り坂。ただ崖の切り通しで道が造られているため、日陰が多くて勾配のわりにこれも楽。
 やっと下りになって、下りきってノスラット・アバッドの町。洋服姿はほとんどおらず、みなシャワール・カミースというダブダブの民族服を着ている。パリスタン西部からアフガニスタン、そしてイラン東部の砂漠地帯にかけて居住しているバローチ族の人々のようだ。


  ●2002年9月12日

   バム → シュルガツ先(122.8km)
 ユーラシア横断路最大の難関と思われるバロチスタンの砂漠越え初日。 約60kmの地点にあるファラージという小さな村を最後に集落が途絶え、どーんと砂漠が始まる。明らかに分かるのは車の量がガクンと減ったこと。緑もまくなり砂と石ころの灰色の世界に突入する。楽しい気分だったのはわりと最初だけで、まもなく左からの熱された強い横風との戦いになる。追い抜いていった車がほんの50mほど先でタイヤをバーストさせていた。
 水を入手できたのは唯1箇所、ファラージから50km先行ったところの軍の駐屯地。


  ●2002年9月11日

   バム (0.0km)
 遺跡には一般的にいって2種類ある。歴史的に重要で誰でも知っているほど 有名だけど実際に行ってみるとわりとショボくて見ため地味なものと、歴史的に無名に近くても保存状態がよくて迫力がすごいものとがある。アルゲ・バムは後者だ。起源は明らかではないが、ササン朝のころには既に交易拠点として栄え、18から19世紀のアフガン人侵入により破壊されたという町がほぼそのまま残っている。イラン政府による修復が度を過ぎてキレイに改築されすぎという悪評もあったが、遺跡然とした雰囲気はまだ大いに残っている。城塞からの眺めは思った以上に広く、見応えがあった。
 午後はネットしようと思っていたのだが、なんとこの町にはインターネットがないらしい。約8リットル容量のポリタンクを砂漠越えに備えて買い、町歩きを終えた。
 インド編の歩き方を読んでいると、早くインドに行きたくなる。ケバケバしい色彩のヒンドゥー寺院も、日本文化の源流にもつながる仏教聖地も、そしてインドカレーも魅力的だ。
 今日やって来た東からの旅行者が、イスラマバードでインドビザがとれるようになったと、言っていた。パキスタンから来た旅行者に会うたびにほぼ同じ質問をしてきたが、初めての肯定的回答だ。


  ●2002年9月10日

   タフルード手前 → バム (93.4km)
 晩と明け方、かなり冷え込み、久々に長袖着用。
 午前中は楽な下り坂。山あいを抜けると、地平線と再会。午後は逆風をくらった。
 バムの宿はイラン初の外国人旅行者専用宿で、日本人は他に2人、あとはフランス人が多いようで、中庭では日本語とフランス語が交錯していた。
 ここの情報ノートに、ここから先パキスタン西部の都市クエッタまで約千キロ続く砂漠越え自転車情報が載っている。砂嵐や熱風と戦いながら地平線を目指す日々は最高、世界で一番旨いものは水....と文字が躍っている。
 宿の書庫に、地球の歩き方インド編を発見、ここでほぼ不必要になるイラン編との交換を願い出ると、宿のおじさん、裏表紙の値段を確認してオーケーと言った。インド編のほうが倍は分厚いのだが、値段はイラン編の方が100円高いのだ。
 夕食は宿でとる。10000Rls(約150円)でご飯、サラダにカレー風の主菜がついた。


  ●2002年9月9日

   ケルマーン → タフルード手前(117.8km)
 朝の空気が涼しい。低地に向かうため下り坂と期待していたが、逆で、峠があるらしく上り坂。しかも長く、推定だが標高2000mを越えたと思われる。
 ひたすら青い空、そして燦然と輝くたったひとつの太陽。アラブを走っていたときも同じことを思っていたが、やはりこの土地も一神教の世界だ。ゾロアスター教のササン朝が新興イスラム勢力に脆くも滅ぼされてしまったのは、この風土がイスラム教に似合っていたためかもしれない。
 こんなところにずーっと滞在していたら、どこかでほんとうにアッラーに遭ってしまいそうだ。


  ●2002年9月8日

   ラフサンジャーン → ケルマーン(105.0km)
 イラン東部ケルマーン。ヤズドから4日とふんでいたが3日で着いた。
 顔や手足を洗ってちょっとさっぱりしてバザールへ。カサカサに乾いた唇のためにリップクリームを探すが、口紅と勘違いされて怪訝な顔をされる。ついに、ある露店でひとつ見つけたものにはチェリーと書いてあった。その名前のような味と匂いがして、一応の効き目はありそうな感じがした。


  ●2002年9月7日

   アナール手前 → ラフサンジャーン(138.8km)
  いつものような快晴の空に戻る。村やモスクで補給しながら順調に走る。夕方に着いたラフサンジャーンではりんご 1kg(1500Rls = 約23円)を買うが旨い味ではなかった。
 ヤズド以来、パキスタンの国民服といわれる上下一対のダブダブ服シャスルカミース姿の男性が目に付くようになってきた。地理的に近いアフガニスタンからの流入民かもしれない。本物のアフガン人が増えてきて判別がつくようになってきたのか、僕自身が間違われてアフガン人と呼ばれることが少なくなった。もっとも、このことについては、イスファハンでヒゲを剃ったことの方が効いているのかもしれないが。


  ●2002年9月6日

   ヤズド → アナール手前(134.7km)
 珍しく薄曇の空。ヤズドから上り坂で、標高が上がれば涼しくもなる。両側に山、直線の道、砂と石ころだらけの土地。ときおり、土と同じ色をした廃墟のような遺跡のような建物が姿を現わす。地図には町として載っていても、実際には、つぶれたらしい店が一軒残されているだけの町だったりするのだ。
 モスクが貴重な補給地点。店やガソリンスタンドが集まっていて、車もたくさん停まっている。冷水があって嬉しい。


  ●2002年9月5日

   ヤズド(23.0km)
 ゾロアスター教の町ヤズド。善霊アフラ・マズダと悪霊アーリマンの二元論からなり、サザン朝の時代にはペルシアの国教にもなった別名拝火教だが、イスラムの侵入により衰退し、今ではわずかにただ生き延びているだけの存在に近い。
 火や水や土を神聖視したゾロアスター教では、埋葬の手段として鳥葬をとった。そのための葬礼の場がヤズド郊外の沈黙の塔。現在は使われておらず、ゾロアスター教徒も土葬になってしまったようだが、男女別に二つ並んだ塔は、さながら砂漠の中の城塞のように天にそびえていた。
 もう1箇所、ヤズド市内にはゾロアスター教の寺院がある。近代的な建物で宗教的な雰囲気はあまりないが、1500年以上燃え続けているという聖火がある。1万人規模のゾロアスター教徒が今もこの町に住んでいるというが、通りを歩いていても、その中にゾロアスター教徒が混じっているのかどうか、もしそうだとしていったいどの人がゾロアスター教徒なのか僕には皆目わからなかった。


  ●2002年9月4日

   アルダカーン手前→ヤズド(97.9km)
 ヤズド着。歩き方や旅行人に載っている安宿がことごとくつぶれたり、値上げされておりさんざん探して、狭い路地に入ったところ、言い値4万を2泊6万に値切って決めた。
 旧市街地がいいと評判だったヤズド。高いミナレットのそびえるモスクの脇の小道から入っていくと確かにその通り。黄土色のレンガと土壁で造られた家並みと入り組んだ迷路のような道。そこかしこに風を取り入れるための空調の塔バードギールが煙突のようにニョキニョキ立っている。一見するとまるで遺跡か廃墟のようだが、角を1つ曲がると、子供達が遊ぶ公園があったりする。近代化された表通りでは違和感のある黒チャドルの女性たちが、中世じみた単色の旧市街地には溶け込んで見えた。逆に男たちが走らすバイクが似合わない。
  最近日没が早まってきた。19時半でもう暗い。


  ●2002年9月3日

   トウデシュク→アルダカーン手前(124.0km)
 ナイーンの町まで一気の下り坂。そのあと単調平坦の砂漠直線地獄。標高下がって暑い。日陰がない。
 1時過ぎの一番暑い盛り。停まっていたトラックの運転手が水をくれる。しばらく一緒にトラックの下で休んでいると、なんとこの運ちゃんウオッカを飲むかとペットボトル入りの酒を出してきた。酒なしイラン、でも大抵みな密造密売で所持しているという話は本当らしい。
 夜、聖廟を中心に店が少し集まる小さな集落。地元の不良連中5人くらいが絡んでくる。一部日本人旅行者はイラン人のことを東洋人を馬鹿にしている、一人じゃ何もできずに集団でからかってくる、分別がなく知性が低いと、とにかくボロクソに言っているが、今回初めてそんなイランのいやな側面に出くわした

     ●2002年9月2日

   イスファハン→トウデシュク(116.8km)
 イスファハンを出て10数キロで砂漠の道になる。でも地図にない村が点々。
 泊まろうと思った小さな村で警察が来て、対応は好意的なくせに野宿はだめだと追出され、7少し走ったあとのだだ広い駐車場へ。
 複数の家族連れと思しき3台の車が止まっていて、オヤジたちが火を焚いて何やら吸っている。チャイとギャズという菓子をもらう。彼らもここに泊まるのかと思ったら、日がほぼ完全に落ちて暗闇になった時に、にわかに片付け始め去っていった。去り際少しのプラムと超大量のブドウをくれた。


  ●2002年9月1日

   イスファハン(0km)
 午前中、自転車の調整。午後は郵便局とインターネット。
 ナイロビ、ケープタウンであったトシ君と再会し驚いた。他の日本人と合計5名で夕食のとき、他の面々からアフリカについていろいろと訊かれ答える。
 こんなとき、とみに歳をとったなと感じる。実年齢ではなく、旅行者としての年齢。シリア、ヨルダンからアフリカを旅行していたときは、そこで会う旅行者はたいがいアジアを横断してきた。それなりに旅行経験のある人たちだった。イスタンブールに戻ってきたときも、同じようにアジア旅行達成組やアフリカ経験者がいた。それが、最近、アフリカへ行って来たというだけでスゲエと一目置かれてしまって何だか歯痒い。そういえば昨日の朝、ナンとジャムの朝飯をとっていたら、チェックインしてきた学生2人組に「上級者の朝メシって感じですね」と言われてしまった。どこが.......だろう?
 イスファハン最後の夜。この国では完全非合法、捕まったら杖で八十叩きと噂の酒を買いに行く。9時過ぎに行ったときは人が多すぎてダメ。11時にもう一度。500mlの冷えてないビールが20,000Rls(300円、同じ銘柄がトルコでは100円以下)。しかもお金を先に渡し5分後の受け渡しという厳戒ぶり。まるで麻薬の取引のようだった。
 インドからウイスキーをペットボトルに入れて持ち込んでいる人がいて、部屋でこっそりと、階段のちょっとした足音にもちょっぴりびくつきつつ、乾杯する。