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ふねしゅーの地球紀行
2002年3月
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最新の日記
●2002年3月31日
チャリンゼ→ダルエスサラーム(113.4km)
アラビア語で平和の港という意味の、ダルエスサラーム。実は首都ではないらしい。法律上は内陸のドドマに移っているそうだ。
チャリンゼからその実質的首都ダルエスサラームまでは比較的なだらかな道のり。15時過ぎに到着する。
町に大して見所がない点ではナイロビと大差ないと思うのだが、ダルエルサラームは旅行者が少ない印象だ。ただウルサイ輩だけはしっかり多く、小一時間ほど歩いている間に4人くらいにコンニチハと声を掛けられた。
●2002年3月30日
マカタ → チャリンゼ(117.0km)
今日もまたアップダウンだらけの道。集落や村はわりと頻繁にあり飲み物や果物の調達は容易だ。ケニアやタンザニアで国語となっているスワヒリ語。田舎だとスワヒリしか通じないことも多い。もともとアラビア商人が交易でやってきて、現地で作った子供らの間で使われ始めた言葉だといい、アラビア語と現地バントゥー系言語が合わさって言語体系が作られている。数字なんかはけっこうアラビア語に似ていて覚えやすく、アラビア文化の影響の強さをあらためて感じた。
発汗対策でシャツを2枚体制にし、休みごとに着替えながら走る。途中また雨やどりの必要があって、結局チャリンゼに着いたのは日暮れ直前になってしまった。
●2002年3月29日
モンボ → マカタ(131.2km)
昨日よりも遥かにシャレにならない坂の連続。50m上って40m下り、80m上がって100m下る。ひたすらその繰り返しだ。体調の悪さにパンクと夕立まで加わって、マカタという目的の村に着いたのは日没ぎりぎりの18:40になってしまった。
人に聞いて青空屋台を見つけ、400Tsh(50円強)でワリ・ククを食べる。ワリはお米のご飯、ウガリが小麦やトウモロコシの粉を練った東アフリカの主食。おかずとして代表的なものに、鳥肉のクク、肉じゃがみたいなンゴンベなどがある。たいていの店ではククは1000Tshくらい、ンゴンベだと500〜700Tsh(ワリもしくはウガリ付き)ですむ。メニューのないところも多いので、そういうときはこっちの知っている献立を言うから、結局値段的にも安いワリ・ンゴンベになってしまうことが多かった。
●2002年3月28日
サーメ → モンボ(121.9km)
昨日ひいた風邪がそのまま。今読んでいる文庫本の主人公も風邪をひいているが、同じ状況(具合はこっちの方がずっとマシだけれど)で皮肉だ。
両側を山に挟まれた丘の道。アップダウンが多く、全体としては下っている。昨日までは飲めていた水が、今夜の村サーメからついに飲めなくなった。水道水が目にも明らかに茶色く濁っているのである。
●2002年3月27日
モシ → サーメ(110.7km)
朝起きて早速外へ出てみるが、あいにくの雲でがっかりする。
7時ごろはかなり厚かったその雲が、ところが走り始めると急速に消えて晴れ上がってきた。そしてちょっとでっぷりとした格好のアフリカ最高峰が青空を従えて姿を現した。キリマンジャロなんて名前からはいかにもキリっと鋭い尖った山峰を想像してしまうが、実際はプリンを崩したような変な格好をしている。しかし、カラメルではなく白い雪をたたえたその姿は、アフリカでまぎれもなく一番高いのだ。
キリマンジャロが拝めたのは結局一時間足らず、まもなく再び雲がやってきてその姿を隠し、道は東から南へ曲がった。
キリマンジャロが見えて気分は良かったが、どうも昨日汗だくのシャツでそのままいて、しかも夜暑かったため裸で寝てしまったのがいけなかったらしく、体調が下がる。しかもここから下りだろうと期待していたら逆にゆるい上り坂とぬるい向かい風という最悪の組み合わせ、予定よりも手前、サーメという村で泊まることにした。
●2002年3月26日
アルーシャ → モシ(87.4km)
アフリカのてっぺんキリマンジャロ。今日はいよいよキリマンジャロへ向けて走る日だ。ところが朝の天気はあいにくの雨。ケニア、タンザニアは3〜5月は雨期なのだ。
雨はだいたい夜の間だけで、まもなく止む。そして曇り空の中、モシへ向かう。やはりキリマンジャロは雲に隠れてしまっていて見えず、その奥に聳え立っているはずの雄姿を想像するほかない。見えるのはずっとやたら細くて長いセクシーな裾野ばかりだった。
結局今日見えたのは、夕方に5分ほどだけ山頂から雲がどいた一瞬だけだった。ケニア、タンザニアは右ハンドルのため、日本の中古車(なんとか工務店やどこそこ幼稚園などというバンやトラック)をよく見かけるが、今日さすがに驚いたのは「静岡県警察」が目の前、しかもキリマンジャロを眺めているそのときに走り抜けていったことだった。写真を撮りたかった!
●2002年3月25日
ナマンガ → アルーシャ(116.0km)
ナマンガからしばらくは野生動物がいつ現れてもおかしくないような、そんな鬱蒼とした新緑の景色が続く。前方には標高4500m超のメルー山が見え、左方にあると思われるキリマンジャロ山は残念ながら雲の中だ。
やがて村が続き牧草地が目立つようになり、長い下り坂となり、アルーシャの町に着いた。登山や国立公園観光の一つの拠点となる町で観光地化されていて町を歩いていると日本語で話しかけられる率が高い。
シャワーを浴びるたび、ドレッドヘアの毛糸がほどけ少しずつバラけてきた。維持のためには洗わないほうがいいのかもしれないけど、そうもいかない。せめて南アまではもたせたいのだが。
●2002年3月24日
カジアド→ナマンガ(89.3km)
昨日に比べ木々の緑は深く、坂道はくねってきて、車の通りは減った。赤い色が鮮やかな布をまとい、長い棒を携え、牛や羊を追って暮らすマサイの人々の姿が増えてくる。途中休憩している時に話しかけてきたマサイの青年(彼は洋装だったが)は、日本語の片言を話し、本業は動物の薬の勉強だが、観光客相手に役立つので、日本語も独学で学んでいると言った。
標高が下がっているのか、雲が多いせいか、ナイロビあたりよりぐんと蒸し暑い。国境の町ナマンガに15じ過ぎの到着。着いて少ししたとき、激しい夕立が降ってきた。
●2002年3月23日
ナイロビ→カジアド(80.7km)
10時頃には出ようと考えていたところ、イシオロ、ナニュキ間を一緒に走ったスーリーが到着する。彼はヒロさんとエジプトやスーダンで何度も会っていて、再会を喜んでいた。彼らと昼食にカレーを食べに行き12時30の出発となる。
ナイロビからしばらくモンバサ方面との分岐までは交通量が多く、その後は静かで平坦な草原の道、国境までのほぼ中間地点カジアドという小さな村に到着する カイロ到着の1月22日からほぼ2ヶ月ぶり、周りに日本人のいない夜である。夕食後地元の青年に話し掛けられ、はじめはたわいもない話だったが、突然政治、思想的話になった。日本は原爆を落とされたアメリカになぜ復讐しないのかと、アラブでさんざん訊かれた事を言い、ケニヤを植民地にしたイギリスは嫌いだ、いつかケニヤを発展させ欧米を追い越すんだ、と熱く語っていた。
●2002年3月22日
ナイロビ(0km)
丸山さん佐藤くんえーちゃんがサファリツアーに出かけ、その後試行錯誤の末、結局インド行きを諦めた林くんがタンザニアに向けて出発した。
夜残ったヒロさん、飯田さんとニューフロリダというディスコへ出かける。ナイロビでも名の知れたナイトスポットで、客は白人や中国人が多く、在住の会社員という日本人も2人来ていた。途中に30分ほどダンスショーの見世物もあって、普通に飲みに来て踊って充分楽しめるようになっていた。帰ったら2時だった。
●2002年3月21日
ナイロビ(0km)
同じ宿にドレッドヘアーのケニヤ人が泊まっていて何日か前にその髪型はいくらぐらいでできるのか尋ねたことがあった。美容院に行くと3000kshくらいするが、ここにきて貰えば2000kshでできるとのことだった。彼のほうがその会話を覚えていて、夕方突然このあと美容師が来るけど、どうする?と訊かれ、とんとん拍子に話がまとまり、ニューケニアロッジ美容院がオープンした。
ふたりの女性美容師は毛糸を使って髪を束ねていく。ときに左右から髪を引っ張られてかなり痛く、後処理としてロウソクの火で毛糸を焦がし固定させるのには驚いた。
もうとうてい日本人には見られないとか、似合いすぎとか反応は色々。ただやたら髪を引っ張られて頭が痛い。
●2002年3月20日
ナイロビ(0km)
本を読んだり、手紙を書いたり、現像した写真の整理をしたり、インターネットをして過ごす。やたら立派な中央郵便局でネガの発送をする。EMSにしようと思っていたが、高かったので普通の航空便にした。普段手ぶらで歩くくせがつくと逆に写真のネガなんて大事なものを持ち歩いていると緊張する。
アジスアベバで会ったヒロさんともう一人日本人トシさんが現れた。
●2002年3月19日
ナイロビ(0km)
毎週火曜に近くで開かれている民芸市マサイマーケットへ出かけた。ちょっとした緑地帯に布地、置物、装飾品などがずらりと並んで賑わいを見せている。
飯田さんはマサイ族の槍と盾などというたいそうなものを買ってご満悦。林くんは太鼓を買っていた。僕は最近着る機会がなくなったジャンパーを処分したいと考えていて、何店か回った末、民芸的なシャツとの交換に成功した。
●2002年3月18日
ナイロビ(0km)
アジスアベバ以来の疲れが溜まっていて、休養目的でだらだらと過ごす。日本大使館と同じ建物にDoDoWorldという日本人経営の旅行社があって、日本語の本を借りることができる。本棚が3つも並んでいてちょっとした図書館のようだった。
大使館には手紙の確認に赴くが、ズサンな管理に驚く。やたら古ぼけた葉書や封書がどさっとあって、平成8年年賀葉書とか97年の消印とかメチャクチャ。大使館は郵便局じゃあない、送られてくるのは迷惑だけれど仕方がないからとりあえずほうりこんであるんだ、と明らかに言いたげな状態だった。
夕方スーパーへ夕食の買出しに行き、戻ってきてびっくり。さっき見送ったはずの林くんがなぜかロビーに座っている。搭乗拒否とのこと。インド大使館確認ではビザを持っていれば片道航空券でも入国可であるはずだったが、エア・インデイアがかたくなで、片道での搭乗を拒否されてしまったという。
野菜炒めの夕食は急遽一人増えたこともあり具少な目となった。
●2002年3月17日
サガナ→ナイロビ(104.7km)
世界第二の危険都市ナイロビ。早朝7じにサガナを出発、夕暮れ時の到着とならないように飛ばし、午後1時過ぎには緊張感をもってナイロビの高層ビルを視界に迎えた。中米パナマシテー以来の緊張だったが、無事巨大な看板のニューケニアロッジに辿り着いた。
宿には何度目かの再会になる林くんがいた。明日の便でインドへ飛ぶことにしたと言った。この時点で他に日本人はいなく、ドイツ人のチャリダーがなんと3人もいて驚く。
夜こんな時間によくぞと思ったが日本人4人組が到着。アジスアベバで会ったえーちゃん、ヒロシ、丸山さんと初対面の飯田さん(実はカイロで一瞬言葉を交わしている)。貴重品は全て宿に置き、酒代だけをもち、6人でまとまって、わずか100mの距離、ストリートチルドレンだけが絡んできた。