ふねしゅーの地球紀行
    2001年8月
               



2001年8月31日

 ベリーズ・シティ(0km)
 一つの国に3日目になると少しずつ町の雰囲気にも慣れてくる。少なくとも メキシコ脱したということが実感として全身で理解できるようになってくる。
 海に面したベリーズ・シティは町の真ん中を流れる川で二分され、スイング橋と呼ばれる小さな橋の北側には郵便局や市役所、国立図書館(これが小学校の図書館並みに小規模なのだが)などがあり、南側には市場、銀行、電話局、スーパーなどが並んでいた。ベリーズは中米の中では比較的治安がよいとされているが、商店は入口までしか立ち入れず奥の棚に並ぶ商品は店の人に言って 取ってもらう方式のところが多かったり、レストランは窓にスモークが張られ OPENの札は架かっているものの中の様子は外から見えなかったりと、ところどころ空気の重さを感じた。屋外での飲酒が禁じられているアメリカやメキシコと違い昼間からベリキンという国産ビールを飲んでぶらついたり、座り込んでいる人たちの姿も目立った。
 夕方、スイング橋を渡って宿にもどろうとしたとき、船の通行のため橋が川と平行に90度回転して、しばし待たされたのだが、なんとその橋が10人ほどの男たちによって(中央部に取り付けられたハンドルを用いて)手動で回されている光景は、なんだかちょっと面白かった。

2001年8月30日

 オレンジウォーク→ベリーズシティ(62.71km)

2001年8月29日

 バカラル→オレンジウォーク(73.36km)

2001年8月28日

 フェリペ・カリージョ・プエルト→バカラル(130.16km)

2001年8月27日

 トゥルム→フェリペ・カリージョ・プエルト(115.96km)

2001年8月26日

 カンクン→トゥルム(160.93km)

2001年8月25日

 チェマス→カンクン(80.46km)

2001年8月24日

 ピステ→チェマス(82.83km)

2001年8月23日

 メリダ→ピステ(140.81km)

2001年8月22日

 〜メリダ(11.83km)

2001年8月21日

 オアハカ〜パレンケ〜(23.36km)

2001年8月20日

 オアハカ(2.36km)

  2001年8月19日

 オアハカ/モンテアルバン(24.85km)

2001年8月18日

 クイヤトラン → オアハカ(126.51km)
 今回の旅だけでなく、今までの自転車経験の中でも最もきつい部類に入ると思われる山道。昨日下ったぶん、それ以上、出発から50キロ延々と続く上り坂。その後も20キロほど下りと思えばまた上りの連続。集落はごくごくまばらで通り過ぎる車も少なく、ひたすらサボテンとその他青々とした植物に埋め尽くされた山の中のくねった道。日射しもきつく、気がおかしくなりそうだった。
 こんな道、たまの村でこわいのがその辺歩いている犬。たいがいおとなしいけれど、中には気の荒い奴がいて、けたたましく吠えながら追ってくる。メキシコシティであったユウコさんはボリビアで犬に咬まれたあと3日間狂犬病の注射が打てず、辿り着いたラパスでは少し高めの宿に泊まって花を飾って寝たと、シャレにならない話をしていた。発狂したら100%死ぬといわれる狂犬病は、ある意味で自動車や強盗より怖い。
 夕方、立ち寄った村で一人の男性に話しかけられ、なんと彼の家で食事をごちそうになる。オアハカ州の地酒メスカルと特産のオアハカチーズ。そのまま泊めてもらってしまおうかとも頭をよぎったが、こちらから言うのもあつかましく、向こうもひきとめては悪いと思ったのか(分からないが)、一時間ほど話をしただけで別れた。そして夜、すっかり日の落ちてしまった8時半過ぎにオアハカの町に着いた。

2001年8月17日

 テウアカン → サンジュアン・バウティスタ・クイヤトラン(127.53km)
 狭く細く曲線の多いうねった道が続く。全体としては下り基調で標高は1000m前後まで下がる。アステカのスペインがメキシコ支配の拠点とした中央高原を離れ、先住民文化の色濃く残る山深いオアハカ州へ。標高の下がったぶん空気も明らかにぬるい。
 北海道に日本語の地名とアイヌ語源の地名が両方あるように、メキシコもスペイン語系の地名とアステカマヤ系の地名が混在している。今日泊まった町はその両方が合わさったやたら長い町名だが、看板などは単にクイヤトランとだけ表記されている。元々それだけの短い地名だったのだろう。
 夕方。国道とは離れた方向に散歩すると、やがて未舗装となり、道を往来する人々がみな褐色の肌だったり、女性は三つ編みで民族衣装ぽい服装をしていたりと、先住民の人口比率が高いように思えた。とはいえ、本当に昔ながらの生活を保っているかといえばそうではなく、電線がひかれテレビのアンテナが立ち、車も停まっていて、立派な病院の建物もあった。(関係ないが、メキシコでは日産の軽トラックをよく見かける。トヨタやホンダよりも日産の店がみたいだ)。
 夜、そんなクイヤトランの町で食事をしているとき、一人の白人男性に会った。こんな田舎の村にもやっぱり白人系の住人がいるんだと思っていると、胸にどこかで見覚えのある名札と、流暢な英語でジーザスクライストがどうのという話。この村に4ヶ月滞在の予定でこの3ヶ月英語を話していないと言っていたが、、、モルモン教恐るべし。


2001年8月16日

 プエブラ → テウアカン(137.67km)
 ときおり自転車禁止の標識を見かける高速の道。地元の人もたまに走っている。なにより路肩が広く舗装状態も良いので、そちらを走ってしまう。
 途中休んだガソリンスタンド付きの売店で、自転車に乗った子供に話しかけられる、聞き取れるのは疑問詞のみ。発せられるのは地名と数字ぐらいのものなのだが、友達やら家族やらが集まってきて、しばし囲まれた。
 その前後から強烈な向かい風に時速10キロも出せず悩まされるが、終盤下り坂でどうにかペースが上がり日暮れ前にテウアカンの町に着く。久しぶりに、地球の歩き方に載っていない町での宿泊だ。

2001年8月15日

 メキシコシティ → プェブラ(150.38km)
 早朝5時半、まだ静かなメキシコシティの空に、細い月と幾つかの星が浮かんでいる。日本へ帰るユキコさんを見送った。
 いったん寝直し、パンとサラダの無料の朝食をとったあと、いよいよ僕が出発する番だ。結局、僕より先に来ていたユウコさんが最後までアミーゴに残り、見送ってくれる。
 7月ぶりの自転車で一路東へ。標高3000m の峠を越え、アステカ時代から栄えたチョルーラの町ではトラーチウマルテペトルと呼ばれる巨大ピラミッドの遺跡を観る。土台の城壁や入り組んだお堀のような回廊の跡がふもとに残されているだけだったが、今のカトリックの教会が鎮座している頂を含めて一山全体が一つの遺跡を形成しちて、どことなく日本の山城の城跡を彷彿とさせた。テオティワカンより大きかったかもしれないというから規模は相当なものだ。
 泊まりはチョルーラから数キロ進んだ百万都市プエブラ。人口のわりにこじんまりした印象を受けたが、歩行者天国の商店街やショッピングセンターなど、他の町よりいくらかオシャレな街のようにも思えた。

2001年8月14日

 メキシコシティ(0km)
 日本でもごくたまに、気が付くと一日ずっと家にいたなんて日があるが、この日は日没までそうだった。よくいえば休養日、悪く言えば怠惰な一日だ。
 スペイン語の勉強をしたり、自転車の整備をしたり、図書室で日本語のマンガや本を読みふけってすごす。
 昼過ぎにカヨさんがメリダへ、夜にはニイさんがオアハカ方面へ出発した。夏休みの真ん中だというのにアミーゴは宿泊客が減ってやや閑散とし、壁には管理人募集(1ヶ月以上できる人、宿代無料、個室提供、思い出が作れる)の貼り紙が目立っていた。

2001年8月13日

 メキシコシティ(0km)
 やられた。これまでの数日は他の誰かが事件を超していたが、今日は僕がやられてしまった。なんと、地下鉄で財布をスラれたのだ。
 5人で市場へ買い出しに行こうと混んだ地下鉄に乗っていた。イダルゴ駅という乗換駅では人の乗降が多く、僕は下から上へ突き上げるような、少し奇妙な押され方をした。乗客の波が引いてすぐ、ズボンの後ろポケットを確認した僕は、そこにあるべき財布のなくなっていることに気付いた。
 小銭を入れる部分のチャックが壊れた古ぼけた財布、現金約150ペソ(2000円程)、HISの名詞2枚、ユースホステルおよびアウトドア店の会員証、そしてレシートの類。クレジットカード類や米ドル札は別のところに保管して幸いだった。
 中南米では財布を持たず直接その日使う程度の小銭をポケットに直接入れて町を歩く歩行者が多いときく。実際アミーゴでも、他の旅行者が、やはりメキシコシティの地下鉄でお金を盗られた(なんと200ドルも!)とか、エルサルバドルやパナマで強盗にあったなんて話をきいた。
 少し気がゆるんでいたかも知れないとニイさんやカヨさんも言っていたが、150ペソを授業料として、今後は気を引き締め直そう。

2001年8月12日

 メキシコシティ(0km)
 昨日の酔いの疲れも醒めやらぬうち、事件は起きた。今朝早くエルパソへ発つ予定だったユキコさんが、日本出発前からだったという中耳炎を悪化させて倒れてしまったのだ。標高の異なるタスコへの往復やその他の疲れが原因か、ともあれ、明日は出発時間が迫る航空券の変更をしなければならず、アメリカン航空のメキシコシティ支店に電話をかける。
 やりとりの結果、空港カウンターへ出向かねばならないと分かり、僕とユウコさんが航空券を持ってタクシーで空港へ。ニイさんとカヨさんが保険会社への連絡や病院探しと、役割を分担してことを急ぐことになった。
 まさかこんな所まで来て、航空券の日時、経路変更なんて仕事をすることになるとは思わなかったが、実際、空港のアメリカン航空カウンターへ行くと、本来は変更一切不可の航空券だったが、電話で言われた150ドルの手数料さえ取られず、今日出発のエルパソ行きを、3日後のダラス経由大阪行きに変更してもらうことができ、僕とユウコさんはひとまず手をたたいて喜んだ。
 アミーゴへ戻ると、病院組もまもなく帰ってきて、日本語の通じるお医者さんに診てもらい、とりあえず大丈夫との話、なんとユキコさんも お尻に注射をされたとの話で、ぼくらは3日前のユウコさんに続いてケツ注射2号だと、ことが済んだ安堵感も手伝って笑いあった。
 午後はカヨさんと人類博物館に出かけ、テオティワカンやトゥーラ遺跡からの出土品などを見学。夜はこのところ外食続きだったこともあり、みんなえスーパーで買い出しをして、煮込み料理を作って乾杯した。

2001年8月11日

 タスコ〜メキシコシティ(0km)
 虫に刺されることの多かったメキシコシティ、アミーゴのベッドに比べタスコの宿は快適で、みな10時頃まで寝ている。昼過ぎタスコを発ち、カカワミルパの大鍾乳洞を見学。ヒッチハイクで帰ろうかなんて冗談も出たが、直行のバスを見つけ夕方メキシコシティに帰着。
 今夜のバスでビジャエルモッサへ発つエリコさんを見送った後、ユウコさんを加えた5人でガリバルディ広場へくり出す。ここではソンブレロをかぶりギターなど様々な楽器をかかえたマリアッチの少楽団が広場を埋め尽くすほど大勢いて、その数倍の聴衆ととともに、あちこちから聞こえる音色と喧噪で賑わっていた。
 と、パーティ用のムーススプレーをかけ合ってふざけている少年たちの一団が突然、僕らに向かってそのムースを噴射してきた。髪や衣服にベッタリとつく白いムース、逃げ回る僕らだったが、気が付くとニイさんがいつの間にか彼らと談笑して仲良くなっていた。広場には様々な屋台が出ていたが、その中に、電気コードを手に持たせ互いに手をつなぎ合わせ、微弱電流を流して電気ショックを楽しむという電流屋がいて、少年達とその家族に誘われ、一緒になって跳びはねていた僕らは、気が付くと周りに一般メキシコ人の人だかりを作っていた。
 そんなふうにして結局12時頃まで広場で遊んでいた僕らは、彼らの車(これがトラックで愛称メトロチキータ=小さな地下鉄)で宿まで送ってもらう。しかもすんなりとは帰らず、宿の直前でテキーラが買い込まれ、みんなでその一本を空けてからのお別れとなった。

2001年8月10日

 メキシコシティ〜タスコ(0km)
 ニイさんやユキコさんに誘われるまま、昨日テオティワカンへ行った4名で、郊外のタスコという町へ、1泊2日で出かけることになった。タスコはかって銀鉱山で栄えた町で、グァナファトを少しこじんまりとした印象だ。
 メキシコシティでのんびりする予定だったが、たまには何人かで一緒に出かけるのも面白い。たとえば食事。一人だと面倒臭さもあってタコスやパンで済ませてしまうことが多いが(メキシコにはその名も'BIMBO(ビンボー)'というブランドのパンがあって、自転車移動中は愛食していた)、4人いると別々の料理を注文し、分け合っていろいろ食べることができる。僕らはここでもテンちゃんことニイさんに頼りっぱなしで、注文から料理の内容の解説までお世話になった。モーレと呼ばれる原料にチョコレートが加えられた独特のソースなど、メキシコ料理は非常に奥が深い。

2001年8月9日

 メキシコシティ〜テオティワカン(0km)
 宿で知り合ったニイさん、カヨさん、ユキコさんと4人で郊外のテオティワカンへ出かける。ニイさんはメキシコに9年住んでいたことがあるといいスペイン語がペラペラで案内役をしてくれた。本名はヨシヒロさんというのだが、みんな、ただニイさんとかあるいは添乗員ということでテンちゃんと呼んでいた。カヨさんはハンガリーからニューヨークへ飛んできてこの後、南米へ下るといい、太陽光線が大好きでいつも日向で光合成をしていた。ユキコさんは2週間の短い予定で後半1週間はエルパソで英語の研修をするのだと言っていた。
 テオティワカンは死者の道と呼ばれる全長1km以上の大通りが入口からまっすぐ伸び、その両側に太陽のピラミッド、地下の寺ゲツァールコアトルの神殿などそうそうたる建築群や、かって居住区だったろう石の土台や、市場でもたっていたのではないかと思わせる広場など、規模の大きなまさに一つの町を形成していた。死者の道の終点に位置する月のピラミッドからの全体の眺めが秀逸で、かって石の土台の上に建っていたと言われる木造の建物を含め、一秒でいいから往時の町の眺めを見られたら素晴らしいだろうなと、4人で話した。
 夜、宿にもどり、3日前から風邪に苦しんでいるエリコさんとユウコさんの様子を見舞う。エリコさんは回復してきたと言ったが、ニイさんがかってホームステイをしていたメキシコ人がお医者さんだということで、ユウコさんを連れ、僕らはオマケでぞろぞろと、そのお宅についていくことになった。
 ユウコさんの風邪と、虫刺されに悩まされていたカヨさんも診察を受ける。ユウコさんはお尻に注射され、カヨさんは首筋に虫の歩いた(噛んだ)道があると言われショックを受けていた。
 診察だけの筈がオマケの僕らを含めて大歓迎され、そのあと、牛の胃袋のスープやサボテンの葉とトウガラシ、タマネギの和え物という家庭料理のご馳走をいただく。地酒メスカルまで振る舞っていただいたが、禁酒令を下され匂いのみかがされたユウコさんは目に涙を浮かべてまで悲しがっていた。自転車で回っていると言った僕はやたら家族に大受けで、とんでもない奴、すごい奴という意味らしいカブロンなるあだ名を付けられてしまった。

2001年8月8日

 メキシコシティー(77、29km)
 シウダー・デ・メヒコ(メキシコシティー)は人口2000万を数え、世界最大といわれている。東京と比較すると23区で800万、東京都として1200万、ただ神奈川、埼玉、千葉など首都圏人口を考えると3000万を越えるので、一概にどちらが大きいというのは難しい。
 ただ今日自転車で走ってみるとその大きさを痛感する。西へベリーズ大使館までは片道7km、南へメキシコ大学やオリンピック競技場までは約10km、ところどころ公園などはあるけれど、デパートや銀行など高層ビルの林立する繁華街が続いていた。南はさらに郊外へ住宅地が続いていて、ソチミルコと呼ばれるかつて湖だったころの名残が運河 として残っている所を訪れたのだが、たとえるなら日本橋から新宿を越え、井の頭公園ぐらいまでを往復したかのような距離感があった。
 午前中に取ったベリーズのビザ、15分ほどの手続きで25ドル。メキシコペソ払いは不可で米ドルのみの受け付けだった。

2001年8月7日

  メキシコシティー(0km)
 メキシコではたいていどの町にも、ソカロと呼ばれる中央広場が中心にあり、その周辺をカテドラル(教会)やその他の主要建築物が囲んでいる。メキシコシティーのソカロは他の都市のそれに比べ圧倒的に巨大で、その真ん中にこれまた巨大なメキシコの国旗が翻っていた。周りには国立宮殿、メトロポリタンカテドラルなど歴史的建造物が並び、先住民系の人々が踊りを披露していたり、民芸品の露店が所狭しと品物を広げている。その一角にはテンプマヨールと呼ばれるアステカ時代の神殿の遺跡と、昔ここがテスココ湖という湖に浮かぶ中の島上の都市だったことを示す大きな模型が置かれていた。
 国立宮殿が建っている場所には、かつてアステカの皇帝が住んでいた王城があり、カテドラルが建っている場所には、アステカの最高神であるケツアールコアトルの神殿が建てられていたという。
 仮に日本がもし戦国時代のころにスペインなどに征服されてしまっていたとしたら、京都や奈良をはじめとする町々のお城や名だたる寺や神社の数々は全て破壊されバロック様式の教会や宮殿の下、地中深くに 今も埋められてしまうことになったのだろう。
 そう考えると、いささかぞっとする。

2001年8月6日

 トゥーラ→メキシコシティー(98、98km)
 7世紀にテオティクカンが滅び、13世紀にアステカ帝国が出現するまでの間メキシコの中央高原を支配し、かつ後のユカタン・マヤ文明にも影響を与えたといわれるトゥーラ・トルーカ文明の遺跡を訪れた。規模は小さかったけれど、この旅初めての遺跡観光で新鮮味がある。朝9時前に入口に着いたらまだ開門前で少し待たされたが、入った後は観光客のいない中のんびりと観ることができた。ただ土産物の売り子はすでにいて待ってましたとばかりに声をかけてきた。
 トゥーラを昼すぎに出て、夕方メキシコシティー着。日本人宿ペンション・アミーゴにはここでプロレスラーをしているというサカイさん、白髪まじりで年配のカサギさんなど常宿の人たちや、ボリビア、チリのほうから来たというユウコさん、そしてティファナ、ラパスで一緒だった(小島)エリコさんらに会った。

2001年8月5日

 ケレタロ→トゥーラ(157,62km)
 たまに宿の部屋にテレビが付いていて見る。日本のアニメ(ポケモンはメキシコでも大人気)やアメリカから輸入しているらしき英語音声スペイン語字幕のドラマ、中南米系の選手も多いせいか大リーグの放送もほぼ毎日あるようだ。その中でやはり盛んなのはサッカーの中継で、グアダラハラでは仕事そっちのけで試合に熱中するオジサン達ばかりであった。今朝驚いたのは突然テレビから日本語が聞こえてきたことで、何かと思えば、Jリーグの高原がどこか南米のチームに移籍してきたことを伝える報道だった。(ハポネスからのポケモンがどうのこうのと言っていたので、けっこう期待されているのだろうか?)
 今日の行程、後半はひたすら州道の田舎道。緑の丘が連なる道を小さくいくつも浮かぶ白い雲をぼけーっと眺めながら進む。途中の小さな村では結婚式の行列に出くわしたり、移動式遊園地や無数の屋台で賑わう盛大なお祭りに出くわした。

2001年8月4日

 サンミゲール・デ・アジェンデ→ケレタロ(76、50km)
 芸術家と学生の街とされるアジェンデにはユースホステルがあり、泊 まっていたアメリカ人の年配の男性はここでスペイン語学校に通っていると話していた。ここのユースで今日の目的地ケレタロにもユースがあると知った僕は、昼すぎの到着後早速訪れるが、なんと日曜は休みとのことで、残念結局普通のホテルに落ち着く。
 ケレタロもまた植民地時代の町並みが残り、古き水道橋など世界遺産にもなっている。教会や石畳の小道の続く中心部から少し離れても繁華街が広がり、賑やかで栄えている印象だった。(人口50万というからそれなりだろう)
 タコスやパンばかりの食事も飽きるので、20ペソの看板に惹かれコミーダ・コリーダと呼ばれる定食に挑戦してみる。スープに肉料理、そして主食のトルティージャ(トウモロコシの粉を伸ばして平たくしたもの)が付くのだけど、スペイン語のメニューの選択肢がまったく分からず困った。

2001年8月3日

 グァナファト→サンミゲール・デ・アジェンデ(120、05km)
 グァナファトからしばらくはつづら折りの長い峠道、標高が高く曇りがちのため上り坂でもむしろ涼しい。
 上り終えた高原の道をさっそうと下り、独立戦争発祥の地といわれるドローレス・イダルコへ。ここで道を間違え10kmほど州道を進んでしまう。国道にしては車の通り(特に大型バス)が少なくおかしいと思って民家で母娘に尋ねるが、地図を開いて訊いてもなかなか通じず苦労した。
 目的地サンミゲール・デ・アジェンデの手前にいくつか温泉があり、トンネル式がユニークと書いてあったエスコンディード温泉へ立ち寄る。海外の温泉はとかく温水プールの印象が強いけれど、ここにはドーム型の湯室が狭いトンネルでつながれ、天井の窓からのみ採光 されているという雰囲気のある温泉があり楽しめた。

2001年8月2日

 グァナファト(0km)
 グァナファトの町は観光客が多く、日本人らしき姿もちらほら見かける。ただ夕方会った地元夫婦の話では(彼らは留学生のホストファミリーをしているようで)スペイン語を学んでいる日本人学生がけっこう多いとのことで、留学生だったのかもしれない。宿で会ったドイツ人のおじさんはモレーリアというやや南の町で2週間スペイン語の学校に通ったと言っていた。
 昼間訪れた博物館で日本人画家の絵画展をやっていた。こんなところで日本の寺社や景色の絵を眺めると日本の景色が不思議と新鮮にかんじる。
 『おやじは放蕩で兄は借金こしらえた、おふくろ月まで出稼ぎに、僕はそれらを絵に描いた。』なんてよく分からない絵も。

2001年8月1日

 ラゴス・デ・モレノ→グァナファト(93。80km)
 ハリスコ州からグァナファト州に入り百万都市レオンを素通り、狭くくねった道をしばらく上がると、険しい丘に家並みがはりつくグァナファトの街が見えた。照明の暗いトンネルを2つ通り抜け、少し賑やかになったところで道路はそのまま地下道に入る。平面方向だけでなく高さ方向にも迷路のように入り組んだ中世都市グァナファトは、古くの地下水道を道路代わりに使用しているらしく、地上の石畳の道と地下のトンネル道が複雑に張り巡らされている。
 国境ならではの観光ズレしたティファナ、ビーチリゾートのラパス、巨大市場の活気が印象的だったグァダラハラ、緑と水にあふれた高原の景色、そして古き植民都市グァナファト、一つの目的地を進む度異なる側面のメキシコが見えて面白い。