自転車世界一周の旅/第140話 ここぞ世界の峠フンジュラブ 標高4700の天上世界
スストから四十キロ。検問所ディーに到着した。建物が点在し、十数人が駐留していた。国立公園の入園料二百五十ルピー(約五百三十円)を徴収された。
パキスタン・イスラム共和国 (Islamic Republic of Pakistan) |
【パキスタン/フンジュラブ国立公園入口】
【パキスタン/フンジュラブ峠への道】
午後三時半。時間的にはまだ早かったが、僕はここで泊まることにした。男たちに尋ねると、あっさり敷地内にテントを張ることを許可してくれた。洗濯をし、読書や散歩をしてのんびりと過ごした。
翌日、ディーを過ぎると、川の流れがにわかに急になった。川に沿った道も急になり、自転車をこぐ速度が落ちた。谷の遥か向こうに雪山が覗き、日陰の斜面に残雪が目立つようになった。
風は冷たいが陽射しは暑い。僕はひとこぎひとこぎを噛みしめるようにして、ひたすら前へと進んだ。
【パキスタン/検問所ディー】
【パキスタン/フンジュラブ峠への道】
午後一時を回って、右側の景色がぐんと開けた。白い山並みに囲まれて、木々のほとんど生えていないだだっ広い荒地が待ち受けていた。小屋があった。最後の検問だった。
小屋を過ぎると、道は左方向にヘアピンカーブした。突然猛烈なつづら折りの急坂。カラコルムハイウェイはついにインダスの流れと別れを告げ、ひたすら天に向かい、山を攻め始めた。先ほど通過したばかりの小屋が、遥か下方に見えた。
【パキスタン/フンジュラブ峠への道】
【パキスタン/フンジュラブ峠への道】
標高はすでに富士山の高さを越えていると思われた。息が苦しくなってきた。足に力が入らず、滅多に使うことのない一番軽いギアが途方もなく重く感じられた。
カーブを曲がる。左手は崖、路面は荒れた舗装、路端には背の低い杭が一定の間隔で打たれている。思わずよろめけば、杭の隙間をすり抜けて崖下に転落してしまいそうだ。
ものの五分もこいだだけで、すっかり疲れ果てて口をぱくぱくさせている自分がいる。酸素が足りない。酸素が足りないから血が濁っている。血が濁っているから身体中に力が入らない、手も足も動かない。
【パキスタン/フンジュラブ峠への道】
【パキスタン/フンジュラブ峠への道】
僕は地面に足をついた。よろよろと自転車から降りて、倒れてしまわないように慎重に自転車を杭に立て掛けた。水と食料を取り出し、ふらふらと路面に座り込んだ。
しかしそのぼんやりとした頭で、ただ目の前を眺めれば、白銀に光る巨大な山が静かに佇んでいる。両の手を広げ、足をそっと踏み出せば、ふんわりと宙に浮かび空を飛べてしまうのではないかと、そんな錯覚すら起こさせるような天上世界へと続く道。
頭をぽんぽんと叩いてみる。ついで左右に振ってみる。大きくあくびをして耳の調子を確かめてみる。呼吸は相変わらず荒かったが、頭が痛むということはない。高山病の兆候はまだ現れてはいないようだった。
何分間そうして座り込んでいただろうか。僕はおずおずと立ち上がり、また自転車に向かった。そんな動作を、このカラコルムハイウェイに限らず、この長い旅の間に、僕はいったい幾度繰り返してきたのだろうか。
【パキスタン/標高4000メートルを越えて】
大きな湖が目前に出来した。白い雪や氷に覆われていたから、ひょっとしたら巨大な氷河なのかもしれなかった。ハイウェイはその白い湖を迂回するようにして曲がっていた。空気は刺すように冷たかったが、西の空には太陽が輝いていた。風は優しく凪いでいた。
僕はこの地球を見たかった。自分の生まれてきたこの惑星を、ただ自分の目で見たかった。自分の足で回ってみたかった。だから自転車で、ずっと走り続けてきたのだ。
標高四千七百メートル、フンジュラブはその長い旅路における一つの頂点。僕にとっての、チャリダーとしての僕にとっての、旅の聖地だった。
【パキスタン/標高4000メートルを越えて】
【パキスタン/標高4000メートルを越えて】
やがて前方に小屋が見えてきた。パキスタン側の国境警備所だったが人の気配はなかった。近づいてみれば小屋は崩れて跡地になっており、誰もいやしなかった。国境はもう目前だった。
門が見えた。鉄条網が見えた。中国側の監視塔が見えた。漢字の看板が見えた。
【パキスタン/フンジュラブ峠制覇】
【パキスタン/ここから中国】
静かな世界だった。三百六十度の視界が広がるなだらかな高原、正面には山がそびえていた。左手には白い湖が、そして右手には緑の草原が広がっていた。遠巻きに僕を眺め、駆け抜けていく小動物たちがいた。
道の両脇に二つの碑が建てられていた。こちら側には深緑色のアラビア文字で《パキスタン》と記されていた。向こう側には紅色の漢字で《中国》と記されている。
【パキスタン/フンジュラブ峠制覇】
【パキスタン/フンジュラブ峠制覇】
僕は自転車を降りた。それは神聖なる儀式だった。誰が決めたわけでもない、元々決めていたわけでもない、ただ自然と身体が動いた。それはここまで自転車で走り続けてきた僕が、僕だけに許した、僕のための、たった一人の儀式だった。
その場に正座した。合掌。
【パキスタン/ここから中国】
【パキスタン/フンジュラブ峠制覇】
【パキスタン/フンジュラブ峠制覇】
出発から30715キロ(40000キロまで、あと9285キロ)
年 | 月 | 日 | 国 | できごと | 距離 |
2001 | 05 | 26 | アメリカ | 旅立ち 空路アラスカへ | |
08 | 05 | メキシコ | トゥーラ手前 | 5000 |
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11 | 11 | トルコ | イスタンブール手前 | 10000 |
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2002 | 04 | 10 | ジンバブエ | ビクトリアフォールズ先 | 15000 |
08 | 10 | イラン | マクー~マルカンラル間 | 20000 |
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10 | 19 | パキスタン | ワガ国境を越えて、インド入国 | 25000 |
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2003 | 01 | 01 | インド | バラナシにて年越し | |
21 | ネパール | 自転車にて入国(ビールガンジ) | |||
02 | 20 | ポカラ~タンセン間 | 28000 |
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26 | インド | 自転車にて再々入国(ネパールガンジ) | |||
03 | 02 | 仏教八大聖地巡礼達成 | |||
03 | ビワール先 | 29000 |
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07 | 再び、デリー到着 | ||||
12 | パキスタン | 自転車にて再入国(ラホール) | |||
24 | アフガニスタン | 車にて入国(ジャララバード) | |||
25 | カブール到着 | ||||
04 | 07 | パキスタン | 車にて再々入国(ペシャワール) | ||
29 | 中国を目指し、ラホールを出発 | ||||
05 | 02 | シンキアリ先 | 30000 |
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10 | フンザ、カリマバード到着 | ||||
06 | 05 | 標高4700メートル、フンジュラブ峠制覇 | |||
05 | 中国 | 自転車にて中国へ |