自転車世界一周の旅/第131話 三蔵法師も訪れた、仏教王国バーミヤン遺跡で祈る
カブールから満員のハイエースで半日、僕たちはバーミヤンに着いた。想像していたよりずっと小さな村だった。
アフガニスタン (Afghanistan) |
【アフガニスタン/バーミヤンへ向かう道】
【アフガニスタン/バーミヤンへ向かう道】
一本の道を挟んで簡素な家屋が並んでいた。果物や卵を売る店、帽子や靴を売る店、タイヤや工具を売る店。その中に、カブールと同様の食堂兼宿屋があった。四十アフガニー(九十四円)の夕飯を頼めば、大広間の雑居寝が無料だった。
【アフガニスタン/バーミヤンの村】
【アフガニスタン/バーミヤンの宿】
翌日は曇り空。峡谷を流れる川の手前から、幅広い崖の一面に大小無数の穴が空けられているのが見えた。その中に二つ、ひときわ大きな穴があった。バーミヤンは、アフガニスタンで最も有名な史跡だ。
二世紀頃に仏教文化が栄え、大仏が建造された。天竺を目指した三蔵法師がこの地を訪れたのは八世紀。その後西からやってきたイスラム勢力により仏教は駆逐されてしまう。それでも大小二体の大仏はその後千年間に渡りこの国を見つめてきたが、ついに二〇〇一年の春、狂信的なタリバーンによって破壊されてしまった。僕がこの旅に出る直前のことだ。
僕たちはまず向かって右手、高さ三十五メートルだったという小さいほうの大仏跡を訪れた。すっぽりと空っぽの洞窟に、背中の跡だけが輪郭として残っていた。柵で囲いがされ、説明書きの立て札があった。破壊された破片がそのまま放置されているのだろうか、国連章のついた白いシートがかぶされていた。
【アフガニスタン/バーミヤンの小大仏】
【アフガニスタン/バーミヤン峡谷を一望】
小大仏と大大仏の間には無数の洞窟があり、なんとその一つ一つが人々の生活の場になっていた。子供たちが元気に駆け回り、洗濯物が干してあった。バーミヤン地方に暮らす人々は東洋系のバサラ人であり、子供たちもみな日本人にどこか似ていた。僕たちが勝手に歩いていると、ライフルを構えた若い兵士が護衛についた。
「そっちは行くな」「こっちを歩け」と警告をくれる。子供が走り回っている風景からは想像がつかないが、一帯はまだ撤去されない地雷が残っているらしい。
途中に兵士たちの小屋があり、彼らは飯を食っていけと、僕たちを小屋に招いてくれた。中央にストーブが置かれ、隅に毛布や衣類が積み重ねられているほかは、何もない簡素な室内で、十人弱の若者たちがいた。
【アフガニスタン/バーミヤンで暮らす人々】
【アフガニスタン/バーミヤン遺跡】
油で炒めた米、ナン、そして水。それは究極の献立だった。アフガン入国以来、毎食のようにピラフとナンの組み合わせだったが、必ず肉や干しぶどうなどの具材が入っていた。タマネギやトマトなどの生野菜が添えられていた。しかし、彼らの昼食にそんな贅沢な添え物は一切なかった。潔いまでの百パーセント炭水化物、主食のみ。
「し、渋すぎる……」
ゴッチンが思わず目を潤ませていた。
【アフガニスタン/バーミヤンの兵士たちと】
【アフガニスタン/バーミヤン峡谷を一望】
彼らはなんのためらいも恥じらいもなく、その飯を僕たちに供してくれた。僕たちが日本人であるとか、外国人であるなどということは全く関係がない。決して対価を求めるわけでもなく、ただ彼らの普段の食事と同じものを、この地を訪れた来客に対する当然の接遇のように、僕たちに分け与えてくれた。
まだ十代後半から二十代前半とおぼしき彼らは、日々何を思い、この遺跡の町で銃器を背負っているのだろう。全く想像がつかず、僕はただ目の前のご飯をお腹に入れた。
【アフガニスタン/バーミヤン遺跡】
【アフガニスタン/バーミヤン遺跡】
午後になって天気は好転し、青空が広がった。なんとも澄んだ極上の青空だ。
大きなほうの大仏はかつて五十三メートルの高さを誇ったという。やはり洞窟はがらんどうで、諸行無常の空しさをたたえていた。
【アフガニスタン/バーミヤンの大大仏】
【アフガニスタン/バーミヤンの大大仏】
兵士の一人がラジオを持っていた。彼がいじくるそのラジオの音をぼんやりと聞いていた僕たちは、びっくりして飛びあがった。
「日本語だ!」
ひったくるようにして僕は彼のラジオを借りた。NHKの短波放送だった。雑音が多く聴き取りづらかったが、イラク戦争に関するニュースを報じていた。
【アフガニスタン/バーミヤンの村】
【アフガニスタン/バーミヤンの子供たち】
旅を続けていると、不意に世界の狭さ、どんなに離れていてもどこかで必ずつながっているのだということを感じてしまう瞬間があったが、このときもまさにそうだった。
子供たちが集まってきた。外国人が珍しいのだろう。くりくりした目で見つめてくる。自分たちの遊び場であるこの洞窟地帯が世界的に有名な遺跡であることを、彼らはどの程度知っているのだろうか。将来この国に恒久的な平和が訪れ、大勢の観光客が押し寄せるようになったら、そのときはもう彼らはこんな無邪気な笑顔を見せることはなくなり、土産物を売ったり、英語や日本語を覚えて案内役を買ってでるようになっていくのだろうか。
子供たちとじゃれあいながら、僕はそんなことを想像した。強いていえば健在の大仏を拝みたかったが、まだ素朴な現在の風景を体験することができて、きっと僕は幸運だろう。
【アフガニスタン/バーミヤンからの帰り道】
【アフガニスタン/バーミヤンからの帰り道】
年 | 月 | 日 | 国 | できごと | 距離 |
2001 | 05 | 26 | アメリカ | 旅立ち 空路アラスカへ | |
08 | 05 | メキシコ | トゥーラ手前 | 5000 |
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11 | 11 | トルコ | イスタンブール手前 | 10000 |
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2002 | 04 | 10 | ジンバブエ | ビクトリアフォールズ先 | 15000 |
08 | 10 | イラン | マクー~マルカンラル間 | 20000 |
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10 | 19 | パキスタン | ワガ国境を越えて、インド入国 | 25000 |
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12 | 03 | スリランカ | 飛行機にて入国(コロンボ) | ||
19 | インド | 飛行機にて再入国(チェンナイ) | |||
2003 | 01 | 01 | インド | バラナシにて年越し | |
04 | ブッダガヤに到着 | ||||
21 | ネパール | 自転車にて入国(ビールガンジ) | |||
24 | カトマンズ到着 | ||||
02 | 15 | アンナプルナ内院、標高4000メートルに到達 | |||
20 | ポカラ~タンセン間 | 28000 |
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26 | インド | 自転車にて再々入国(ネパールガンジ) | |||
03 | 02 | 仏教八大聖地巡礼達成 | |||
03 | ビワール先 | 29000 |
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07 | 再び、デリー到着 | ||||
12 | パキスタン | 自転車にて再入国(ラホール) | |||
24 | アフガニスタン | 車にて入国(ジャララバード) | |||
25 | カブール到着 |