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自転車世界一周の旅/第107話 幻のヒンドゥ王国で幸せとは何かを考える


 インド南央部の小さな村ハンピ。ゴアからバスを乗り継いで僕がこの村に着いたとき、あたりはもうすっかり日が暮れていた。宿に荷を降ろしたあと、僕は夕食をとりにぶらぶらと歩いた。土産物屋や食堂が並ぶ村唯一の大通りに出ると、正面に電飾に飾られた門が見えた。

 インド
(India)

インド/ヴィルパクシャ寺院全景
【インド/ヴィルパクシャ寺院全景】

(ああ、行き止まりなんだな)

 そう思い、さらに少し歩いた。しかしなんだか様子がおかしい。ふと何気なく空を見上げて、驚嘆した。夜空が広がっているはずのその空間に、巨大な影が見えた。

 夜闇に紛れて浮かぶその影は、十階建てのビルほどはありそうな、それはそれは巨大なヒンドゥ寺院の塔門だった。階層状の塔に明かりはなく、漆黒の夜空に溶け込むようにして、その姿がぼんやりと浮かんでいた。

インド/ハンピ、岩山から村の中心の眺望
【インド/ハンピ、岩山から村の中心の眺望】

インド/リンガ(シヴァ神の男根)
【インド/リンガ(シヴァ神の男根)】

 十四世紀から十六世紀にかけて、南インド全域を支配し繁栄したヴィジャヤナガル王国。その首都が置かれていた場所がハンピ。著名な見所の多い北インドに対し、南インドを訪れる旅行者の数は圧倒的に少ないが、訪れた誰もが絶賛するのがここハンピだった。

 巨大な塔門を擁するヴィルパクシャ寺院から、大通りを反対方向に進むと、やがて褐色の岩が剥き出しの岩山に当たった。

 その岩山を迂回して丘を越えると、深い緑の中に、四面の壁に囲まれたアチュタラヤ寺院が忽然と姿を見せた。手前のマタンガ山に登ると、数々の岩山、蛇行する川、サトウキビ畑の緑、そして点在する遺跡群が一望できた。

 ハンピ村を飛び出し、さらに南方にも遺跡は広がっていた。城壁跡、王宮施設や兵站、神々をかたどった石像群。丸二日歩き回っても見足りないほど、ヴィジャヤナガル王国の威容は本当に見事だった。

インド/ハンピ、アチュタラヤ寺院
【インド/ハンピ、アチュタラヤ寺院】

インド/ハンピの南方の村
【インド/ハンピの南方の村】

 しかし、この村が旅人に人気があるのは、それだけの理由ではなかった。暑いさなか遺跡を巡って疲れると、僕はヴィルパクシャ寺院の界隈に戻ってぶらついた。すると、絵葉書などを売る幼い子供たちがたちまち群がってくる。

「こんにちは」

 彼らはまず日本語で言い、そのあと英語に切り替えた。ヒンディ語も話せるが、母語はカンナダ語だった。それがまだ小学生ほどの子供なのだから恐れ入る。

 僕は子供たちにカンナダ語で1、2、3はなんというのか訊いてみた。ヒンディ語と似ているだろうと思っていたら、まったく異なる発音だった。南インドの言語体系は北インドとは別物なのだ。そしてよく見れば、彼らの顔立ちもどこか丸みを帯び、鼻も低めで、温和な雰囲気がした。

インド/ハンピ村の青空学校
【インド/ハンピ村の青空学校】

インド/ヒンドゥ教の神ナラシンハ(ライオンの獣人)
【インド/ヒンドゥ教の神ナラシンハ(ライオンの獣人)】

*   *   *

 宿にはもう一人日本人が泊まっていた。彼はよほどのハンピ好きであり、来るのは二度目だと言った。僕らはよく、二階の廊下からぼんやりと階下の風景を眺めていた。

 家族経営の小さな宿だったが、十代後半とおぼしき美しい娘がいた。

「かわいいなあ。彼女だったら結婚してもいいな」

 彼はたわいもなく言った。

 宿の奥さんや、娘さんや、隣の家のおばさんたちは、洗濯をしたり、食器を洗ったり、掃除をしたり、小さな子供の世話で始終忙しそうだった。洗濯物はトタン屋根や積んである薪の上に干す。ゴミの散らかる土の上をパッパと掃き、水を撒く。

 傍らでは子供たちが、小さなお尻をプリンと出して用を足していた。その間を犬や牛や豚たちが、のんびりと餌を求めて歩き回っていた。

インド/ハンピ近郊の川、渡し場
【インド/ハンピ近郊の川、渡し場】

インド/ハンピの宿にて
【インド/ハンピの宿にて】

「日本も江戸時代はこんな感じだったんですかねえ」

「たぶんそうですよ」

 もしインドに生まれていたら、到底世界一周などできなかっただろう。いま目の前でお尻を剥き出しにして踏ん張っている子供のように育ち、生まれた家と、生まれた村の中で、ほぼ一生を過ごすのだ。

「彼女はハンピから出たこと、あるんですかね」

「どうでしょう。あってホスペットかな」

 ホスペットというのはハンピからほど近い少し大きな町だった。

「でも、案外こういう生活こそ幸せなのかもしれませんよ」

「そうかなあ。日本人に生まれたからこそ、あれこれ言えるのであって、実際インド人に生まれたら、他に選択肢ないですよ」

インド/ハンピ遺跡、象舎
【インド/ハンピ遺跡、象舎】

 僕はムンバイの港で見かけた光景を思い出した。両親にお菓子を買ってもらい、着飾ったお洒落な恰好で楽しそうな子供のすぐそばを、同じ年端のボロをまとった子供たちがお金をせびって歩き回っていた。歴然と残るカーストの差、インドにおいては当たり前の光景だった。この国において、乞食に生まれたら一生乞食。絶対に這い上がることはできない。

「実はその辺の木こそ幸せなのかもしれないですね。毎日太陽を浴びながら、ただひたすらぼーっとして」

 宿の前で生い茂っている常緑樹の林を眺めながら、彼が言った。

「今の俺ら、状況変わらないですよ。日なたぼっこして、ぼーっとして」

 僕は笑った。

インド/ハンピ遺跡、王の基壇
【インド/ハンピ遺跡、王の基壇】

インド/ハンピ遺跡、階段池
【インド/ハンピ遺跡、階段池】

出発から26593キロ(40000キロまで、あと13407キロ)

できごと 距離
2001 05 26 アメリカ 旅立ち 空路アラスカへ
08 05 メキシコ トゥーラ手前
5000
11 11 トルコ イスタンブール手前
10000
2002 04 10 ジンバブエ ビクトリアフォールズ先
15000
05 26 トルコ 旅立ち1周年 南アフリカから飛行機にて入国
07 20 アジア全走行を目指し、55日ぶりにイスタンブール発
08 10 イラン マクー~マルカンラル間
20000
19 アーベイェク市内
21000
09 06 ヤズド~メフリーズ間
22000
16 パキスタン 自転車にて入国(クイ・タフタン)
17 クイ・タフタン先
23000
27 デラ・アラー・ヤル付近
24000
10 07 ラホール到着
19 ワガ国境
25000
19 インド 自転車にて入国(アムリトサル)
25 デリー到着
11 03 プシュカル先
26000
09 ムンバイ行きの夜行列車で自転車が壊される

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