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自転車世界一周の旅/第93話 世界で一番うまいものは、水


 九月十二日八時半、僕は一人バムの町を出発した。

 四十キロでロスタムアバッド、ここは普通に町だった。六十キロでファラージの集落、小さな売店がいくつか集まる程度であった。

 イラン・イスラム共和国
(Islamic Republic of Iran)

 サンドイッチを買い、その場で食べた。果物は売っておらず、仕入れそこなった僕はロスタムアバッドで買っておくべきだったと悔やんだ。売店の脇にモスクがあり、水道があった。

 水を汲んで飲む。また汲んで飲む。げっぷをして、さらに飲む。もう一杯飲む。僕はお腹が苦しくなるまで水を体内に詰め込んだ。いくら飲んでも、どれだけ飲んでも、充分でなく思えた。好きなだけ自由に水が飲めるのは、これが最後だと分かっていた。

 この先イラン東端の都市ザヘダンは二百五十キロあまり先、到着は明後日になる。

イラン/バロチスタン砂漠
【イラン/バロチスタン砂漠】

 バムで仕入れた八リットルの水タンクを満タンにした。さらにペットボトルを積んで、十リットルの備え。タンクには取っ手がついており、自転車のハンドルにぶら下げることができた。単純に八キロ以上の重さになり、ハンドルが傾く。四リットルのタンクを左右に配分すればバランスはとれるのだが、ちょうどいい大きさのものが売っていなかったのだ。

 売店の兄ちゃんたちは物憂げにこっちを見やっていたが、僕は内心(俺はやってやるんだからな)と息巻いていた。

 ファラージを出るとすぐに、何もない、灰色の大地が始まった。遠くに褐色の山が連なり、どこまでも広く果てしない青空が天を覆っていた。舗装はでこぼことし、道は狭かった。

イラン/ラクダの群れ
【イラン/ラクダの群れ】

 まっすぐに続く黒い道路をじっと見つめ、僕はペダルをこいだ。今までよりも標高が下がり、一段と猛暑。向かい風は熱風となり、日陰はない。五キロごとに距離を示す標識があり、その影が提供してくれるわずかな面積だけが、直射日光から逃れることのできる貴重な憩いの地であった。ときおりけたたましいクラクションを鳴らして、バスやトラックが行き過ぎた。そのたびに風圧で僕はあおられた。

 バムから百十三キロ、標識で何度も登場したシュルガツという地名の場所に、町はない。《何もない町、シュルガツ》と情報ノートには記されていた。しかし軍の駐屯があった。かめに入った水をもらうことができた。水は濁っていたが、僕はありがたくいただいた。

イラン/何もない町シュルガツの標識
【イラン/何もない町シュルガツの標識】

 やがて夕暮れが訪れた。当然のこと野宿である。僕は道路から離れ、適当な砂地にテントを張った。買い込んでいた食糧はミートソースの缶詰と、パリパリに乾いて水気ゼロのパン。お腹に溜まる量としては十分だったが、流し込むための水が限られていた。

 一日炎天下の中を走り続けて、体内からどれほどの水分が奪われているか分からない。手持ちの水の全てを一息に飲み干せてしまうほどの渇きの欲求があったが、明日のことを考えると、相当量を残しておく必要があった。僕は自らの心を鬼にしてタンクのふたを閉め、西の空へ沈んでいく夕陽を目で追った。東の空から天を支配しようとにじり寄ってくる紺色の夜闇に、気持ちを溶かした。

 優しい夜。やがて疲れが身体を包むのに身を任せ、僕はテントの中に潜り込んだ。

イラン/バロチスタン砂漠の日の出
【イラン/バロチスタン砂漠の日の出】

イラン/道沿いのお祈り場でトラックの運転手たちと
【イラン/道沿いのお祈り場でトラックの運転手たちと】

 翌朝、まだ涼しいうちに距離を稼ごうと、日の出と共に起きだして、六時過ぎには走り始める。空気が涼しいのは束の間で、すぐに暑くなってしまうのだが、十キロほど走ったところで、砂漠の中に突然、お祈りのための台が設けられているところがあった。屋根があり、手足洗い用のタンクには水が入っている。好ましくない味がしたが、干からびるよりはましである。僕はごくごくと飲んだ。

 途中、情報ノートに書かれていたカフラックという場所の店はつぶれていた。しかし廃墟のそばで水が湧いていた。その先には、砂漠なのにちょろちょろと水の流れている川があった。付近をとんぼが飛んでいて、妙な秋の風情があった。

イラン/カフラック付近の小川
【イラン/カフラック付近の小川】

イラン/バロチスタン砂漠
【イラン/バロチスタン砂漠】

 再び砂漠。午後になると峠道で、長い上り坂が続いた。崖の切り通しに日陰が生じるのはありがたかったが、緑はない。カフラックで汲んだ水も、休憩のたびに減っていく。水分の足りない身体は軋み、ペダルをこぐ足は重い。速度が出ないと、肌に触れる空気も熱い。それでも汗だけは際限なく滴り落ちる。

 やはりこの土地も一神教の世界だと、僕は感じた。強大な帝国を築いていたササン朝が新興イスラム勢力にあっという間に滅ぼされてしまったのも、なによりこの風土がイスラム教に似合っていたからなのかもしれない。こんな殺伐とした世界を、幾日も幾日も自転車で走っていたら、どこかで神に出会ってしまいそうな気さえする。

《世界で一番うまいものは、水》

 乾いた血管をさらに絞るようにして、僕は走り続けた。

イラン/最東端の州都ザヘダン
【イラン/最東端の州都ザヘダン】

イラン/トルコ国境からの道のりを振り返る
【イラン/トルコ国境からの道のりを振り返る】

イラン地図

出発から22994キロ(40000キロまで、あと17006キロ)

できごと 距離
2001 05 26 アメリカ 旅立ち 空路アラスカへ
08 05 メキシコ トゥーラ手前
5000
11 11 トルコ イスタンブール手前
10000
2002 01 20 エジプト 船にて入国(ヌエバ)
03 15 ケニア 赤道通過
04 10 ジンバブエ ビクトリアフォールズ先
15000
21 ボツワナ ディノクエ~ディベテ間
16000
05 01 南アフリカ ブリッツタウン~ビクトリアウエスト間
17000
09 最南端アグラス岬到達
12 ケープタウン手前
18000
26 トルコ 旅立ち1周年 飛行機にて入国(イスタンブール)
07 20 アジア全走行を目指し、55日ぶりにイスタンブール発
28 アクダーマデニ先
19000
08 09 イラン 自転車にて入国(マクー)
10 マクー~マルカンラル間
20000
19 アーベイェク市内
21000
19 テヘラン到着
09 06 ヤズド~メフリーズ間
22000

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