自転車世界一周の旅/第88話 テヘラン~「悪の枢軸」日本贔屓の素顔
ホトベサラからしばらくは、ひたすら水田の続く田園風景。やがてバンダレ・アンザリーという町を境に産業地帯に変わり、夕暮れと競うようにして僕はラシュトに着いた。
イラン・イスラム共和国 (Islamic Republic of Iran) |
【イラン/カスピ海沿岸の都市ラシュト】
ラシュトはカスピ海地方の中心都市、一泊しかしなかったが、印象は良かった。広場を中心に人波に溢れ、露店がずらりと並び、夜でも活気があった。タブリーズあたりに比べると、女性の衣装も彩り豊かであった。黒一色ではなく、青や白のヘジャブをけっこう見かけたのだ。
海沿いの町らしく、露店では魚を売っていた。カスピ海でとれた魚だろう、香辛料をふって真っ赤になっていた。商店を冷やかして歩いていると、僕は不意に日本語で話しかけられた。
「日本人ですか?」
声の主はアイスシェイク売りのおじさんだった。もちろん彼はイラン人だったが、大阪で働いていたことがあると言った。
「日本は良かった。また行きたいです」
おじさんは懐かしむように言った。十歳くらいの娘が一緒にいたが、その歳だとまだ人前でも頭髪を覆わなくてもいいらしく、真っ赤な服とフリフリのスカートで、お人形さんのように着飾った恰好をしていた。
おじさんはアイスを二つ作り、一つを娘に、もう一つを僕にくれた。「この人、ヤクザね」と、隣の煙草屋のおじさんを指差し、冗談で笑った。
【イラン/再びイラン高原へ、上り坂は続く】
【イラン/峠の途中の茶店にて】
ラシュトから三日、再びイラン高原に帰ってきた僕は、首都テヘランへ。テヘランは十八世紀末、カージャール朝時代に都が置かれた町で、現在の人口は六百五十万人を超える。広大な市域は、北に向かうにしたがい緩やかに丘となり、高級住宅が並ぶ新市街、南が雑多で庶民的な旧市街とされていた。
【イラン/再びイラン高原へ、上り坂は続く】
【イラン/テヘランの入口に建つアザディ・タワー】
旧市街の中心はエマーム・ホメイニ広場。そこから東へ徒歩十分ほどの、自動車用品を売る店が並ぶ一角に、安宿があった。地元イラン人、西洋人、そして日本人も数名泊まっていた。学生や、短期旅行の社会人がいて、僕に日本は夏休みの時期であることを思い起こさせた。
歴史の浅いテヘランは、巨大なバザールといくつかある博物館を除けば、さして観光すべきところはない。僕は地下鉄を利用して、大使館巡りをすることにした。東西と南北の二路線が運行するテヘランの地下鉄は、駅も電車もきれい、利用している客層もどことなくこぎれいな恰好で、先頭の一両は女性専用車両となっていた。
【イラン/テヘランの地下鉄】
もちろん僕は男車両に揺られ、まず向かったのは日本大使館。新聞を読みに訪れることが半ば習慣化していたが、今回はもう一つ大事な目的があった。パスポートの残りページが少なくなっており、増補を申請する必要があったのだ。
公定レートと市中レートに開きがある国は、その費用が安い。通常二千五百円かかる増補料金が、わずか三万五千七百十四リアル、しかも頼むと即日になった。
【イラン/国民的飲料、ザムザムの工場】
続いて僕は、旧アメリカ大使館を訪れた。一九七九年のイスラム革命に際し、四百四十四日間にわたって占拠され、大使館員らが人質になったという歴史的舞台。アメリカ軍による救出作戦は見事に失敗し、以来両国は断交したまま、大使館は閉ざされたままである。
建物の内部に入ることは当然できないが、壁には「Down with USA(アメリカをぶっ倒せ)」という文字が記され、ドクロの顔をした自由の女神の絵が描かれていた。
【イラン/旧アメリカ大使館】
もう一ヶ所、訪れるかどうか迷ったのはインド大使館だった。五月の衝突以来、印パの外交関係は悪化しており、イスラマバードではインドビザがおりないという噂があった。早めにテヘランで申請したほうが無難なのだが、一方で早く取りすぎると、通常六ヶ月のビザの有効期限が、それだけ目減りしてしまうという難点があった。
「ごく最近、一ヶ月のシングルビザが取れたという話もありますよ」
同じ悩みを抱えていた同宿のマコトくんが情報をくれた。僕はインド入国までまだあと二ヶ月はかかることを考え、大きな賭けであったが、この地でのビザ取得は見送ることにした。
【イラン/テヘランの市場】
帰り道、地下鉄の駅構内で路線図を眺めていると、僕はまた流暢な日本語で話しかけられた。
「どこへ行きたいのですか?」
以前埼玉に住んでいたというおじさんだった。
「大丈夫です。ただ地図を見ていただけですので」
「最近景気はどうですか? また日本に行きたいです」
ラシュトのおじさんと同じようなことを、このおじさんも言った。英語が通じにくいイランであるが、その反面、ときに日本語が通じてしまう。「日本語使いに話しかけられたら、まず警戒せよ」というのが海外を旅する際の悲しい鉄則であるが、イランは例外といえた。
かつては互いにビザ不要だった両国の、友好の利潤。アメリカには「悪の枢軸」呼ばわりされるこの国の、これもまた一つの面白さだった。
【イラン/テヘランから南へ】
【イラン/マンザリエという地点の一軒茶屋】
出発から21108キロ(40000キロまで、あと18892キロ)
年 | 月 | 日 | 国 | できごと | 距離 |
2001 | 05 | 26 | アメリカ | 旅立ち 空路アラスカへ | |
08 | 05 | メキシコ | トゥーラ手前 | 5000 |
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11 | 11 | トルコ | イスタンブール手前 | 10000 |
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2002 | 01 | 01 | イラク | バグダッドにて年越し | |
20 | エジプト | 船にて入国(ヌエバ) | |||
03 | 15 | ケニア | 赤道通過 | ||
04 | 10 | ジンバブエ | ビクトリアフォールズ先 | 15000 |
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21 | ボツワナ | ディノクエ~ディベテ間 | 16000 |
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05 | 01 | 南アフリカ | ブリッツタウン~ビクトリアウエスト間 | 17000 |
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09 | 最南端アグラス岬到達 | ||||
12 | ケープタウン手前 | 18000 |
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26 | トルコ | 旅立ち1周年 飛行機にて入国(イスタンブール) | |||
07 | 20 | アジア全走行を目指し、55日ぶりにイスタンブール発 | |||
28 | アクダーマデニ先 | 19000 |
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08 | 09 | イラン | 自転車にて入国(マクー) | ||
10 | マクー~マルカンラル間 | 20000 |
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19 | アーベイェク市内 | 21000 |
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19 | テヘラン到着 |