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自転車世界一周の旅/第85話 ジーンズ姿の男、黒ずくめの女、ザムザムの国


 八月九日、イラン突入。久しぶりに自転車で越える陸路国境だ。左右から山の迫った隘路。国境検問所を抜けると、斜度の急な下り坂が僕を待ち受けていた。直線の道が、小さな国境の町バザルカンを抜けていく。

 トルコ共和国
(Republic of Turkey)
 イラン・イスラム共和国
(Islamic Republic of Iran)

イラン/国境の町バザルカン
【イラン/国境の町バザルカン】

 人通りは少なく、宗教指導者や政府要職らの肖像画が目立ち、商店の看板にはアラビア文字が大書されていた。たまに通りすぎる車は見かけない車種、イラン国産のペイカンだった。日本を出て一年以上が経過し、いかに旅慣れていたとしても、初めての国に入ったその初日というのは少なからず緊張感があった。

 町を抜けると、すぐに検問があった。おそるおそる停まったが、警官は僕を一目見て、行ってよしの合図をくれた。右手には褐色の山が、左手には草原の景色が広がっていた。草原の彼方には雪を冠した大小のアララット山が見えたが、トルコ側とは左右逆の構図であった。

(イランだ。これがイランなのだ)

 ペダルを踏む脚に力がこもった。

イラン/マクー
【イラン/マクー】

 夕方、僕はマクーに着いた。崖に沿った細長い町だった。宿はすぐに見つかったが、食堂は見つからなかった。ビールも飲みたかったが、この国でお酒はご法度だ。僕は仕方なく売店で、サンドイッチとザムザムを買った。

「イランにはビールがない。されどザムザムがある」

 アメリカと対立するイランには、他の国には必ずあるコカコーラもペプシもない。代わりに売られているのが国産コーラのザムザムであり、一部バックパッカーの間でこよなく愛される飲み物であった。

 翌朝、僕はパン屋を探した。小さな町で、朝早くから行列のできている店がすぐに見つかった。トルコはフランスパンが主流だったが、イランではバルバリーと呼ばれる巨人の草履みたいな分厚く平たいパンが売られていた。こねた生地を平たく伸ばし、赤橙色の炎が燃えさかる釜の内壁に貼りつけ、焼きあげる。そうしてできた熱々のパンが、三枚で千リアルという割り切れない安さだった。

イラン/走行距離二万キロ突破
【イラン/走行距離二万キロ突破】

 マクーから北西部の中心都市タブリーズまでは二日の道のり。その途中で僕は、また一つ大きな区切りを迎えた。

 丘を越え、林間の緩やかな左曲がりの道、自転車に付けたメーターが通算二万キロを表示した。アラスカからの通算、グアテマラで盗られた一台目との合算距離が二万キロ。日本を発って四百四十二日目に達成した地球半周の瞬間だった。交通量の少ない道沿いで、僕は一人、記念写真をカメラに収めた。

イラン/イヴォーグリという村
【イラン/イヴォーグリという村】

イラン/マランドという町
【イラン/マランドという町】

*   *   *

 そしてタブリーズ。タブリーズはモンゴル系のイル・ハン国の首都として栄えた古都であり、現在の人口は百万を超える。市域は広く、町の入口から中心部に達するまでが遠く、ようやく宿に辿り着いたときには、もう午後の八時になろうとしていた。

 しかし、まだ町は賑やかだ。衣料品店や電気店、雑貨屋が明かりを煌々と照らし、軒を連ねていた。僕は食堂を探して歩いたが、マクー同様、困ったことになかなか気のいい食堂がない。トルコではロカンタと呼ばれる食堂が百メートルも歩けば見つかったが、たとえトルコ方言の通じやすいタブリーズであってもそこはイラン式、ケバブを焼いている店か、サンドイッチが並ぶ軽食屋ばかりなのである。

 イランを抜けてトルコにやって来た旅行者がまず食に感動する。その理由をしみじみと実感しながら、結局この日も僕はサンドイッチとザムザムで夕食を済ませる羽目になった。

イラン/イル・ハン朝時代のアルゲ・タブリーズ
【イラン/イル・ハン朝時代のアルゲ・タブリーズ】

 さらに少し歩いたところにバスターミナルがあった。多くのバスが並び、大勢の人々でごった返していた。バスは中央に仕切りがあり、男女乗る場所がはっきりと分かれていた。前乗りの男たちは襟付きシャツにジーンズという西洋風のいでたち、後乗りの女たちは全身黒ずくめのチャドル姿であった。

 今まで訪れたイスラム圏がどうだったかを、僕はとっさに回想した。トルコは、とりわけ都市部においては、ヘジャブ姿の女性を見つけるほうが難しかった。シリアやヨルダンなどのアラブ圏になるといささか記憶が遠かったが、髪を露出した洋装の女性もたまに歩いていた。

 それに、そうだ。僕は記憶の中でポンと手を打った。アラブでは男性もまた頭にカフィーヤを巻いていた。女だけでなく男もまた民族的な装いをしていたから、特に奇異には思わなかったのだ。

 僕のすぐそばを、黒いヘジャブで頭髪を覆った若い女性たちが、手にアイスクリームを持ち、お喋りを楽しみながら通りすぎていった。チェーンをじゃらじゃらぶら下げたジーンズ姿の男たちが、肩を叩き合いながら大声で往き過ぎていく。

 また雰囲気の違うイスラム国家の姿だった。

(これが、イランか)

 読めないペルシア語の看板を眺めながら、僕はつぶやいた。

イラン/タブリーズの宿の前にて
【イラン/タブリーズの宿の前にて】

出発から20223キロ(40000キロまで、あと19777キロ)

できごと 距離
2001 05 26 アメリカ 旅立ち 空路アラスカへ
08 05 メキシコ トゥーラ手前
5000
11 11 トルコ イスタンブール手前
10000
2002 01 01 イラク バグダッドにて年越し
20 エジプト 船にて入国(ヌエバ)
03 15 ケニア 赤道通過
04 10 ジンバブエ ビクトリアフォールズ先
15000
21 ボツワナ ディノクエ~ディベテ間
16000
25 南アフリカ 自転車にて入国(マフィケン)
05 01 ブリッツタウン~ビクトリアウエスト間
17000
09 最南端アグラス岬到達
12 ケープタウン手前
18000
25 南アフリカ出国 空路トルコへ
26 トルコ 旅立ち1周年 飛行機にて入国(イスタンブール)
07 20 アジア全走行を目指し、55日ぶりにイスタンブール発
28 アクダーマデニ先
19000
08 09 イラン 自転車にて入国(マクー)
10 マクー~マルカンラル間
20000

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