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自転車世界一周の旅/第82話 ボスポラスから太平洋へ、アジア完全走破の誓い


(ここからは、全て走ろう)

 ボスポラス海峡を船で渡ると、そこはアジアだ。空は青く、カモメがゆっくりと飛翔していた。碧い海の向こう側に、トプカプ宮殿やスレイマニエジャミイの尖塔が佇んでいるのが見えた。あの旧市街の一角に、五十五泊もしたコンヤペンションがある。

 トルコ共和国
(Republic of Turkey)

トルコ/ボスポラス海峡
【トルコ/ボスポラス海峡】

 対岸のハレム地区に降り立ち、僕は自転車にまたがった。近所の屋台から、焼いたケバブの匂いが立ち込めていた。

 ボスポラスから太平洋までの全ての道のりを、僕は自転車で走り切るつもりでいた。北中米やアフリカではたびたび列車やバスのお世話になった僕であるが、今年中に帰国するという当初の予定を繰り延べた今、急ぐ理由はなかった。むしろ今まで、先へ先へと急ぎ過ぎていたような反省があった。

 後半の楽しみにとっておいたシルクロードを、じっくり味わおう。一切交通機関に頼らず、自転車によるアジア完全走破に挑戦したい。そう決めたのだ。

 ポケットには財布が一つ入っていた。メキシコシティの地下鉄ですられて以来、ほぼ一年ぶりに持つ財布だった。コンヤペンションで土産として売られていた手製の品で、イスタンブール生活の思い出に買っていこうと思ったものだった。

「これ一つ買おうかな」

「どれがいいの?」

 格子模様や、花をあしらったような図柄が多かった中で、僕は女の人が踊っているスーフィーダンスの絵が描かれたものを選んだ。

「あげます」

 壁から財布一つを取り外し、エリフは僕にその財布を餞別代わりにくれた。

 七月二十日、ついに僕はイスタンブールを離れた。一路東へ。

トルコ/イスタンブールから東へ
【トルコ/イスタンブールから東へ】

*   *   *

 海沿いに小刻みなアップダウンが続く道。久しぶりの自転車でお尻が痛い。しばらくは市街地が続き、交通量も多い。ついに出発したという高揚感よりも一人旅に戻った寂しさが先に立ち、体力も心なしか落ちているような気がした。

 およそ一時間、二十キロ走って小休止という今までどおりのやり方を繰り返す。何度目かの休憩をしたガソリンスタンドでは、従業員たちが食事をとっていて、僕はキョフテと呼ばれる肉団子をもらった。

「どこから走ってきたんだい」

 おじさんから質問をされ、僕はとっさにイタリアからだと答えた。

「どこまで行くんだい?」

「イランです」

「イランまでどのくらいかね」

「三週間くらいです」

 コンヤペンションに滞在中、エリフや彼女の両親と喋って訓練したトルコ語が、早速役に立った。トルコ語は日本語と同じ膠着語であり、「まで」とか「から」という助詞の用法が似ているため、単語を並べるだけでも、それなりに文章としての体裁を作るのが楽だった。

「英語より日本語のほうが簡単よ」

 エリフの言っていたことが思い出された。片言でもトルコ語を駆使できると、相手の反応が全然違う。

「トゥーキィエ、ビル、ジャポニャ、スフィル(トルコ一点、日本〇点)」

 下手に言葉が通じるとみなされて、いまだワールドカップで日本が負けたことをネタにされるのが癪だったが、それは仕方がないというものだろうか。

トルコ/イズミットの町
【トルコ/イズミットの町】

 イスタンブールから百キロ、イズミットという港湾都市に僕は着いた。三年前に大地震が起きた町であるが、見る限りその後遺症は特に感じられなかった。ガイドブックに載るような町ではなく、僕は街路を一つずつ巡り、ホテルの看板を見つけては、その料金を尋ねることを繰り返した。

 夕暮れどき、疲れた身体をもうひと踏ん張りさせて寝床を探さなくてはいけない事実が、また僕に旅に戻ったことを痛感させた。高校生くらいの少女が道を教えてくれて、やっと手頃な宿を見つけることができた。

 そして、二ヶ月ぶりに独りぼっちになった寂しさに本当に気づいたのは、夜だった。食事も一人、宿に戻っても部屋に自分一人。今日一日あった出来事を語らう相手はなく、旅行者に溢れていたコンヤペンションが懐かしかった。酒屋でビールを仕入れ、テルくんにダビングしてもらった最新の日本の曲を聴きながら、他に誰もいない部屋で、僕は一人酔った。

トルコ/イスタンブールから東へ
【トルコ/イスタンブールから東へ】

トルコ/カイナシュル
【トルコ/カイナシュル】

 翌日は雨交じりの曇天。三日目も午前中は雲が多い。しかし午後、ゲレデという分岐の町を通りすぎたあたりで、不意に青空になった。狭かった視界も突然開けた。緑の高原が広がり、爽快な下りの一本道が現れた。その景色の広さに、僕は漠然と、これがアジアだと思った。

(走れ、走れ)

トルコ/クズルジャハマン手前
【トルコ/クズルジャハマン手前】

 休息の時は終わった。今僕は、また新しい旅を始めようとしているのだ。この道はインドや中国へと続く。見知らぬ世界が、僕の来るのを待っている。

 坂道を下りながら、風を切りハンドルを握りしめ、内陸の首都アンカラまで百四十キロなどという道路標識を横目にしながら、僕はTシャツをまくり上げた二の腕にわさわさと鳥肌が立つのを感じた。

トルコ/首都アンカラ
【トルコ/首都アンカラ】

トルコ/首都アンカラ
【トルコ/首都アンカラ】

出発から18528キロ(40000キロまで、あと21472キロ)

できごと 距離
2001 05 26 アメリカ 旅立ち 空路アラスカへ
08 05 メキシコ トゥーラ手前
5000
09 04 グアテマラ 強盗事件発生 自転車を失う
6940
10 04 イタリア パナマから大西洋を越え、飛行機にて入国(ローマ)
11 11 トルコ イスタンブール手前
10000
2002 01 01 イラク バグダッドにて年越し
20 エジプト 船にて入国(ヌエバ)
03 15 ケニア 赤道通過
04 10 ジンバブエ ビクトリアフォールズ先
15000
21 ボツワナ ディノクエ~ディベテ間
16000
25 南アフリカ 自転車にて入国(マフィケン)
05 01 ブリッツタウン~ビクトリアウエスト間
17000
09 最南端アグラス岬到達
12 ケープタウン手前
18000
25 南アフリカ出国 空路トルコへ
26 トルコ 旅立ち1周年 飛行機にて入国(イスタンブール)
07 20 アジア全走行を目指し、55日ぶりにイスタンブール発

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