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自転車世界一周の旅/第44話 バグダッド~アラビアンナイトの悠久の都


 ヨルダンからイラクに入って、僕たちはその道の良さに驚いた。片道三車線の高速道路のような道に、さすが産油国だと感心した。

 イラク共和国
(Republic of Iraq)

イラク/ヨルダンとの国境
【イラク/ヨルダンとの国境】

 やがて太陽は西の空に傾き、風景も少しずつ変化があった。果てなく続くように思えた砂漠地帯が終わり、ぽつぽつと緑が目立ち、沿道に集落なども見かけるようになった。

 道路が橋にさしかかり、大きな川の流れが見えたとき、「ユーフラテスだ」とガイド氏がうなずいた。車内の空気がにわかに湧いた。

イラク/街道沿いのレストランで初食事
【イラク/街道沿いのレストランで初食事】

 まもなく日は落ちてあたりがすっかり暗くなった頃、前方に輝く光の塊が見えてきた。さっきから街の灯が見えるたび、僕たちはそうではないかと期待したが、ことごとくガイド氏はまだだと言った。しかし今度前方に現れた光の群れは、明らかにその量が違っていた。そこで暮らす人々の多さを、万単位の生活が密集していることを、如実に示していた。

「バグダッドだ!」

 僕たちは車窓越しに息を飲んだ。湾岸戦争で破壊され、戦後も経済制裁に喘ぎ、そして独裁者の圧政に苦しむ首都。そんな型通りの先入観は、早速の光の洪水にたちまち流されようとしていた。

*   *   *

イラク/バグダッド中心部
【イラク/バグダッド中心部】

 イラクツアーの二日目は、待望のバグダッド市内観光。ゆったりとした中型のバンに、僕たち九人のほか、ガイド氏と運転手が乗った。お喋りで陽気なガイド氏に比べると運転手は寡黙だったが、それは単に英語が話せないからなのかもしれなかった。

 大晦日のバグダッド。しかし車窓越しに町中を眺める限り、特に浮ついた雰囲気はなかった。洋服を着たおじさんも、ヘジャブをまとったおばさんも、そそくさと道を行き交い、忙しくも活気ある朝が始まろうとしていた。

イラク/チグリス川
【イラク/チグリス川】

イラク/現存する唯一の城門跡
【イラク/現存する唯一の城門跡】

 僕たちはまず、イラク国立博物館を訪れた。シュメール、バビロニアの古代文明から、アッバース朝、オスマン帝国時代に至るまで、イラク七千年の歴史が凝縮された大きな博物館だった。全十八室にわたる展示は、英語の説明書きも添えられていて非常に充実していた。観覧客は少なかったが、それでも展示の品々を前に真面目にメモを取ろうとする学生たちの姿がちらほらと見受けられた。

イラク/アッバース宮殿
【イラク/アッバース宮殿】

イラク/アッバース宮殿
【イラク/アッバース宮殿】

 続いて僕たちは、チグリス川の畔に建てられたアッバース宮殿を訪れた。広々とした敷地に四角い建物が泰然とそびえていた。大きな門から中に入ると、宮殿は箱形の構造になっており、石畳の中庭があった。中庭の真ん中には噴水の跡があり、細胞のように配置された回廊の一室は礼拝の間、また別の一室は浴場となっていた。溢れる水はまさに富と権力の象徴であったのだろうと推察された。

 僕がバシルに習ったイスラムの礼拝作法を実践してみせると、「それはシリア流だな」と、さすがガイド氏はすぐに見破った。

イラク/バグダッドの市場
【イラク/バグダッドの市場】

イラク/バグダッドの市場
【イラク/バグダッドの市場】

 バグダッドの中心部を流れるチグリス川はかすかに蛇行していた。少し離れた場所に橋が架かり、車がひっきりなしに往来している様子が見えた。対岸には集合住宅らしき灰色のビル群があり、モスクの丸屋根とひときわ高いミナレットの姿があった。自分たちは本当にイラクにいる、バグダッドにいるんだということを、強く実感できるひとときだった。

 目抜き通りにはアッバース朝全盛時代のカリフ、ハルン・アル・ラシッド王の名が冠せられ、別の場所には『アリババと四十人の海賊』の一場面を模した銅像が立てられていた。

イラク/両替所でイラクディナール入手
【イラク/両替所でイラクディナール入手】

イラク/市内のレストラン
【イラク/市内のレストラン】

 中世イスラム社会の高度な学問を支えたムスタンシリア学校。その静かな中庭を歩いていると、七人ほどの現地の若者たちが入ってきた。男も女もいた。みんな洋装で、ヘジャブをせず髪を出している女の子もいた。貧乏旅行者の僕たちよりはよっぽどきれいな恰好をしており、本やらノートやらを手に抱えていた。おそらく大学生だろうと思われた。

「ハロー」

 僕たちは一目で外国人だと分かるのだろう。彼らは片言の英語で話しかけてきた。日本人であると言うと、彼らはびっくりしたように目を丸くした。しかし好意的な笑顔で「イラクへようこそ、バグダッドへようこそ」と言ってくれた。

イラク/ムスタンシリア学校で会った若者たち
【イラク/ムスタンシリア学校で会った若者たち】

イラク/クテシフォンの遺跡
【イラク/クテシフォンの遺跡】

 その晩、僕たちは年越しそばを食べた。ユーシさんたちがエルサレムのアジア食材店で調達したものだった。海苔もネギもない、天ぷらも何もない、麺つゆだけの素の麺だった。

 傍らのテレビからは、コーランだろうか、厳かなアラビア語の音色が響いていた。緑色に輝いたモスクの映像がずっと流れていた。

 東京よりは六時間遅く、ニューヨークよりは八時間早く、この街にも平等に新年は訪れた。

「あけましておめでとう!」

イラク/ホテルの部屋で年越しそば
【イラク/ホテルの部屋で年越しそば】

出発から10694キロ(40000キロまで、あと29306キロ)

できごと 距離
2001 05 26 アメリカ 旅立ち 空路アラスカへ
07 20 メキシコ 自転車にて入国(ティファナ)
08 05 トゥーラ手前
5000
09 04 グアテマラ 強盗事件発生 自転車を失う
6940
10 04 イタリア パナマから大西洋を越え、飛行機にて入国(ローマ)
07 トルヴァイアニカ先
7000
20 ギリシア アテネ市内
8000
30 ペラ手前
9000
11 11 トルコ イスタンブール手前
10000
14 W杯サッカー欧州予選を観戦 翌日新聞に載る
12 03 シリア 自転車にて入国(アレッポ)
14 レバノン バスにて入国(ベイルート)
20 シリア バスにて再入国(ダマスカス)
25 ヨルダン 自転車にて入国(アンマン)
30 イラク ツアーにて入国(バグダッド)
2002 01 01 バグダッドにて年越し

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