自転車世界一周の旅/第26話 ローマ~古の都より再出発
「なんてつまらない顔をしてるの。笑って、笑って」
泊まっている安宿で、今朝起きしな管理人の若い女に言われた言葉が、心に刺さっていた。僕はまるで浮かない気分で、ローマの旧市街を歩いていた。
ローマのシンボル、古代の競技場コロッセオの近くに、四枚の歴史地図が描かれた大きな壁画があった。都市国家ローマが、やがて地中海を制する大帝国へと成長していく歴史的変遷が、四枚の地図によって描かれていた。
【イタリア/ローマ帝国の変遷を描いた歴史地図】
イタリア共和国 (Republic of Italy) |
ふと周りを見渡すと、道行く大勢の観光客が立ち止まり、そんなありきたりの歴史地図に見とれていた。指を差し、大きく手を振りながら、ああだこうだと歴史談義を交わしていた。この地を自分たちの起源であり歴史的故地だと考えるヨーロッパ人たちにとって、ローマは特別な場所なのだろう。
いや、ヨーロッパ人たちだけではなかった。西洋文明に無邪気に憧れるアジア人たちもまた、ローマの旧跡を前にしてはしゃいでいた。群衆の中から聞こえてくる日本語を敏感に感じ取りながら、あえてそこから逃げるようにして、僕はコロッセオの前から歩き去った。
【イタリア/フォロ・ロマーノ遺跡】
コロッセオから少し歩いていくと、石柱が立ち並ぶフォロ・ロマーノ遺跡があった。二千年の歴史を誇るローマ帝国時代の遺跡だ。立派な凱旋門やら、神々を刻んだ石像やら、当時の貴族の居住跡などが残っていた。
そんなローマの栄華を眺めながら、僕はつい数日前まで滞在していた中米のことを思い出した。ここローマの地に育った西洋文明は、やがて成長し、海を渡る。そしてアメリカ大陸に存在したアステカ・マヤ文明を、完膚なきまでに殲滅した。かつてアメリカ大陸の支配者だったインディヘナは、言葉を奪われ、宗教を奪われ、歴史を奪われ、今も社会の最下層で苦しんでいる。
輝かんばかりの大遺跡の中に佇みながら、僕は滅ぼされた側の悲哀を自分の心に投影していた。
(つまらない顔? そりゃ、つまらない顔にもなるさ)
僕は悪態をつき、遺跡の石ころを蹴っ飛ばした。からんころんと脳天気な音がした。とうに塞がったはずの頭の傷が、また疼いた。
【イタリア/サン・ピエトロ広場】
翌十月六日、僕は自転車屋を訪ねた。ローマの中心部から地下鉄で数駅行ったところで見つけた、小さな自転車屋だった。店舗はさほど広くはなかったが、品揃えは充実していた。機能的でお洒落な自転車が並んでいた。さすが自転車王国イタリアである。
僕は一台の青いマウンテンバイクを選んだ。サスペンションなどはなく、フレーム形状もごくありふれた、しかし乗りやすそうな自転車だった。値段は四十五万リラ、約二万七千円だから初代よりぐっと安い。また盗まれてしまう可能性を考え、あまり高額なものは避けた。
英語が堪能な店主は、突然来店し、完成車を買っていく日本人に少し怪訝そうだったが、さしたる質問を投げかけもせず、親切に保証システムや税金還付の方法などを教えてくれた。余計な詮索をされないことに、僕はほっとした。
支払いを済ませ、調整が終わった新品の自転車を店の外に出し、ザックを荷台に載せた。走行中に落ちてしまわないようにバランスを考えつつ、ロープでぐるぐる巻きにして固定する。いくつかの小さな荷物や工具類は、やはり買ったばかりのフロントバッグに分けて積んだ。
【イタリア/自転車屋で二台目を購入】
(再出発だ) 僕は思った。ここはローマ。シルクロードの西の起点である。
(ここから東京まで走ろう)
買ったばかりの自転車にまたがり、僕は静かにペダルをこぎ出した。快調にペダルは回った。地下鉄駅のあるロータリーを曲がると、緩やかな下り坂だった。
自転車屋の店主は僕を見てどう思っただろうか。やっぱりつまらなそうに見えただろうか。それとも再出発の一歩に、少しは喜びのある生きた表情をしているだろうか。
【イタリア/ローマ中心部】
バスで回ることになった中米も、いつか良い経験になったと肯定できる日が来るかもしれない。この先また、地形や悪天候に泣かされ、自転車を選ばなきゃよかったと思うことも間違いなくあるだろう。
僕は息を大きく吸った。交通量の多いローマの道。荷物満載の自転車に乗った東洋人を見て、ふっと視線を寄越す人はいるが、声をかけてきたり、大袈裟に驚くようなそぶりを見せる人はいない。
静かな再出発。でも、それでいいのだ。
僕は息を吐いた。ペダルを踏む脚に力を込めた。
【イタリア/コロッセオ前にて】
出発から6941キロ(40000キロまで、あと34059キロ)
年 | 月 | 日 | 国 | できごと | 距離 |
2001 | 05 | 26 | アメリカ | 旅立ち 空路アラスカへ | |
22 | 船にてアメリカ本土上陸 | ||||
20 | メキシコ | 自転車にて入国(ティファナ) | |||
08 | 05 | トゥーラ手前 | 5000 |
||
24 | チチェンイツァ先 | 6000 |
|||
29 | ベリーズ | 自転車にて入国(オレンジ・ウオーク) | |||
09 | 02 | グアテマラ | 自転車にて入国(サンタ・エレーナ) | ||
04 | 強盗事件発生 自転車を失う | 6940 |
|||
18 | エルサルバドル | バスにて入国(サンサルバドル) | |||
20 | ホンジュラス | バスにて入国(コパンルイナス) | |||
24 | ニカラグア | バスにて入国(マナグア) | |||
26 | コスタリカ | バスにて入国(サンホセ) | |||
30 | パナマ | バスにて入国(パナマシティ) | |||
10 | 03 | 出国 空路大西洋を越える | |||
04 | イタリア | 飛行機にて入国(ローマ) | |||
05 | 二台目の自転車を購入、再出発 |